いわゆる更新記録(靖間 誠PC日記兼用)

西暦2000年7月1日−7月31日分


西暦2000年7月1日

 2型7号、竣工。

 Z(ゼータ)氏の「Xv協定」とリンク。

 その他、例によって例の如く重箱の隅を突く様な(けれども当人にとっては結構重大で深刻かも知れない)訂正・修正並びに追加等を実施。

 尚、現時点ではこの「交信日記」の6月分が消え去っているが、それは貴方の目の錯覚ではない。

 当然の如く毎日書いてはいるのだが、まだ全部を打ち込めていないのだ(爆)。

 そんな訳で6月分については打ち込み終了次第公開としよう。

 

 ロジャー・スミスではないが、強大なる敵との困難な交渉(苦笑)に成功し、倉庫に封印されていた数多のCD-ROMやMO、それにPC-9821Xv13/W16を奪還。

 完全ではないが、それでも70%の目標達成率であった事は喜ばしい。

 奪還後真っ先にやったのがAHA-3940UWDの搭載実験であるのは言うまでもない(苦笑)。

 結果は無事成功(喜)。

 予想通りAT/98両用BIOSが書かれていた。

 ついでに言えば、やはり2940U/UW用のユーティリティディスクで設定可能であった。

 

西暦2000年7月2日

 幾原邦彦+永野護の“シェルブリット II”をゲット。

 幾原という人は、つくづく非常に頭の良い人なのだと思う。

 面白い。面白いが、何かこう、微妙な部分で致命的と言って良い様な引っかかりを感じる。

 それが一体何なのかを上手く説明できないのが辛い所だが、その微妙さも含めて「面白い」というのも又確かだ。

 

 Xv13にWindows 2000をインストール。

 むぅ、何故にAT互換機版Voodoo Banshee用ドライバをインストールするか、こいつは(怒)。

 あれこれ調べてみたが、どうもPC-98上ではAT互換機版Windows 2000対応のVoodoo Banshee / 3用ドライバは正しく動作しない(つぅか起動にさえ失敗して固まってしまう)様だ。

 とりあえず回避策を検討しているが、こりゃ駄目かもなぁ(溜息)。

 

西暦2000年7月3日

 中古CD屋で新居昭乃の3rdアルバムとゲーム“COTTON”のBGM CDをゲット。

 ・・・NEC AVENUEが解体されて色々なミュージシャンのCDが入手困難になった訳だが、まさか“クレヨン社”のCDにプレミアが付くとはなぁ(溜息)。

 とりあえず何処でも良いからあの辺のFAIR LANDレーベルのCD、再発してくれないかなぁ。

 まぁ、出しても“変”なノリのアルバムが多かったレーベルだから、儲かりそうにはないけど(苦笑)。

 

西暦2000年7月4日

 朝刊で近鉄が三重県にある特殊狭軌線(軌間762mm)の北勢線について廃止の意向を表明した事を知る。

 1977年に抜本的な近代化工事が実施されてから早23年、とうとう持ちこたえられなくなったか、という感が強い。

 詳細は今一つよく判らないが、恐らく23年前に投入された270系電車や、その導入にあたって更新された地上設備に、経年によって何らかの更新あるいは取り替えの必要が生じたものの、将来性や採算性を考慮するとこれ以上の投資は不可能、と判断されたのだろう。

 近鉄が三重県下に持つ、旧三重交通→三重電鉄継承線区である北勢・内部・八王子の3特殊狭軌線は、1990年末の下津井電鉄全線廃止後、我が国に残された最後の現役軽便鉄道(黒部峡谷鉄道も762mm軌間であるが、あれはあくまで本質的に工事用軌道であり、事実として軽便鉄道法の監督下にあった事はなく、又その運行形態も相当に特殊である)であるが、実の所これらの路線群は少なくともこの20年ほどはまともに儲けの出ない、所謂“お荷物”路線であって、そもそもこの世紀末の時代まで生き残ってきた事自体が奇跡か酔狂か、というレベルにあった。

 それが今まで残されてきたのは、実質的に現在の賢島線と湯ノ山線(旧三重線)だけが欲しかった旧三重交通→三重電鉄に由来する路線群を近鉄が入手した際の経緯(稼ぎ頭であった両線を喪えば、社内の内部補助で生きながらえていた、北勢・内部・八王子の各線は確実に廃止を強制される事になる)故の事で、特に三重線と軌間が同一であって列車も直通していた内部・八王子の両線については、殆ど名古屋あるいは大阪からの直通特急を走らせる為だけに実施された湯ノ山線の1435mm軌間への改軌によって四日市での乗り換えを強要される様になったから、これらの各特殊狭軌線に対する特急料金収益からの社内補助の実施には、ある意味根拠があった訳だ。

 因みに、この場合北勢線に対する補助の実施には根拠が無い様にも思えるが、実は北勢線は、かつての下津井電鉄の残存区間同様バス代行が極めて困難な地形的条件にあって、その意味で内部補助の実施が社会的要請に鑑みて不可欠であったという事情がある。

 実際問題として、同じ特殊狭軌線でも特にバス化に技術的困難が無く、しかも何の代償措置も要しない状況下にあった松阪線(松阪−大石)は三重交通時代にさっさと廃止されているのだから、残る3線については、近鉄による継承の時点で、それでもある程度は収支バランスが良好であったのであろう。

 そんな事情を抱える北勢線の廃止を近鉄が打ち出したという事は、余程北勢線の輸送人員が激減し、かつ将来的にも増加が望めないのか、さもなくばバス化について何らかの解決の目処がたった、という事であろう。

 個人的には、この種のLRV的性格を備えた所謂ライトレールは、決して懐旧の念による趣味的な理由ではなく、京都会議で示された二酸化炭素発生量の規制という目標の実現を目指す上で、そうして交通弱者に対する保護の観点からも、公的な補助を行ってでも極力温存・維持を図るべきではあると思うのだが・・・。

 

 CanopusのサイトでMediaCruiseなる統合マルチメディアプレイヤー(WinDVDのエンジンによるDVD再生機能も含む)をDL。

 ・・・何か知らないけど、細かいところにやたらとバグ抱えていないか、これ?

 それともまだWindows 2000でのチェックが甘いのかなぁ(溜息)。

 

 すっかり忘れていたが、当サイト公開開始から今日で丁度1年が経った。

 その間、人生における様々な大イベントが発生したので、長かった様でもあり短かった様でもある。

 この駄文をお読みの方々には、これからも宜しくお付き合い願いたい。

 

西暦2000年7月5日

 いやぁ、大変な事になっているね、○キジルシ(苦笑)。

 毎日大阪に通っている身としては非常に生々しい事件なのだが、個人的にはあの会社の牛乳は飲むとアレルギーで蕁麻疹が出る代物なので、世の中から駆逐されるのは誠に結構(笑)。

 まぁ、あの会社に関わる販売店や配送業者の人々にしてみれば地獄の様な一週間と化しているのだろうが・・・。

 危機管理の出来ない大手企業って駄目だね、つくづく(苦笑)。

 

 筑波さくらの“目隠しの国2”をゲット。

 いやぁ、良いねぇ、こういう“純”な路線は。

 今の自分がそこからどれだけ離れた場所にいるかについて自覚があるだけに、ひどく眩しい。

 

 何気に入ったレコード屋で、遊佐未森のアルバムプロデュース等で知られた外間隆史のアルバムをゲット。

 全く知らない間に何時の間にか出ていたらしい(苦笑)。

 そういえばこの人は元FILMSなんだよなぁ。

 

 AT3号機のシステムメンテナンスを実施。

 ・・・それにしても、普通に使っているだけでシステムファイルが崩壊するってのは何とかならんのか?>某Officeソフト

 

西暦2000年7月6日

 ヴィータ・ノヴァの1stアルバムと、鈴木慶一の“Mother”をゲット。

 どちらも随分前にリリースされていたCDだが、入手の機会がなかった物だ。

 これらを買う時、レコード店で棚を眺めていたら、旧NEC AVENUEが出していたゲームミュージックCDの一部がコロムビアから“アヴェニューシリーズ”というそのままなシリーズ名(笑)でリリースされている事に気付く。

 そういえば末期のNEC AVENUEレーベルのCDは、コロムビアに生産委託されていた。

 恐らくその関係での再発だと思うが、「同級生」だの「卒業S」とかから出されてもなぁ(苦笑)。

 あのあたりは中古でもだぶついているというのに(笑)。

 でも、その帯の裏に書かれていたラインナップを確認したら「超兄貴」もこれから出るか、それとも既に出ているらしい(苦笑)。

 これで欲しいCDが再発されるについて、少しだけ希望が出て来た(喜)。

 

 ポン橋で中古のPC-98の市場調査(笑)。

 成る程、値段が落ちているなぁ。

 まぁ、大体が今から4,5年前か、それ以前の機種だから当然といえば当然の話ではあるのだけど。

 流石にA-Mateが激減している。

 As2/Ap2以前の機種は影も形もなかった。

 同じ時期の486物X-Mateはゴロゴロしていた事から考えるに、PC-9801-86相当の音源内蔵というのはやはり強いという事か(笑)。

 実を言えばPC-9821用でも、PC-9821Ae/As/Ap/Af/As2/Ap2/An及び一部98MULTi限定でしか動かない(As3/Ap3は不可)DOSソフトが一部に存在しているが、実際問題としてはそれは非常にマイナーで、NEC自身はソフトハウスに対してその機能の使用を推奨しなかった経緯があるから、実際問題としてはB-Mateでさえなければ、後は86音源さえ挿せるならば特に問題は無い筈だ。

 まぁ確かに、86音源の中古価格を考えたら、殆どその代金だけで買えてしまう486物A-Mateってのは美味しい存在ではあるのだが(苦笑)。

 

 帰宅後、“Mother”を聴いてみる。

 凄く良い出来だ。

 

西暦2000年7月7日

 世間では今日は七夕とかいう行事が行われているらしい。

 忙しいので、しかと確認した訳ではないが(嘲笑)。

 

西暦2000年7月8日

 某掲示板での助言に従い、Xv13に貰い物のViking II 9.1GBを入れてみる。

 が、まともに起動しなくなって悩む。

 あれこれ試した結果、電源が怪しいと判断、やむなくAT3号の電源(ATX 250W)とXv13の電源(ATX 200W)を交換。

 再度起動してみると、何事もなかったかの如くするすると起動する。

 ・・・やはり電源容量不足が原因か(溜息)。

 まぁ、200Wじゃ幾ら何でも足りないよなぁ、やはり(苦笑)。

 因みにAT3号の方はそんなに重装備ではないので、200Wでも問題無く動作している。

 

西暦2000年7月9日

 今日はどうやらまともに動くようになったXv13の環境再構築。

 基本的にはこれまで使っていたFireball SE2台からWindows98/DOS環境のドライブをコピーし、コピーしてもSCSIのIDとかの都合でまともに動かないWindows 2000を別個にインストール、という事なのだが、Viking IIのフォーマットをFireball SEに入れてあったWindows2000上で行った為にMBRにドライブメニューが書き込まれず、HDDをViking IIだけにすると起動出来ないという状況に陥る。

 仕方ないのでFDで起動し、DOS上でFDISK /MBRした後にSYSコマンドでシステムファイルを再度転送してからFDを抜いて再起動。

 今度は無事動作した。

 だが、肝心のWindows2000のインストールに何故か失敗。

 まともに起動しなくなった(困惑)。

 

西暦2000年7月10日

 Apple Extended Keyboard(M0115J)をジャンクで購入。

 帰ってから確認したらちゃんと生きていた(喜)。

 

 “成恵の世界 1”なる新刊コミックをGet。

 スペオペの定番なネタがやたらとツボにはまる(笑)。

 余り期待していなかったのだが、これは収穫だった。

 

 Xv13へのWindows 2000のインストール作業を再度トライ。

 が、やはり途中で止まってしまう。

 色々厄介な拡張をしたマシンなのでそこら辺が引っかかっているのだろうか?

 Fireball SEじゃ、ちゃんと動いていたのになぁ(泣)。

 

西暦2000年7月11日

 かつてX68000用ゲームで名を知られたZOOMのサイトが某IRCチャネルで話題となる。

 ・・・そうか、今はPS2のソフト開発しているのか、この会社。

 って事はPS足蹴にしてSSに走った(その時確か同社社長がSSの雑誌でPSについて散々な事言っていたよーな)事について、SCEIとの関係修復に成功したのか(笑)

 実は私はここのデザイナーの福田氏のセンスが好き(笑)で、彼がおまけまんがを書いているが故に同社製68ソフトを全部揃えてしまった位だった(笑)。

 そんな訳で、再び彼の新作が見られるのは凄く嬉しい(喜)。

 ついでに勿論、あの伝説の「ねこまんが’93,’94」が同社サイトで公開されているのはもっと嬉しい(笑)。

 

 一昨日来、頭を悩ませてきた、PC-9821Xv13/W16でWindows2000のインストール作業が完了しなくなった事の原因が判明。

 散々調べ回った挙げ句に判明したその原因は、何と同機のPCIスロットに挿していたサウンドカード(EnsoniqのAudio PCI(純正品))のWindows 9x用ドライバであった(爆死)。

 Windows2000のインストールに何故Windows9xのドライバが、それもサウンドカードのドライバが影響を及ぼすのだ?という疑問もあるだろうが、これは事実だ(苦笑)。

 理屈を説明すると以下の様になる。

 

 AudioPCIを挿した状態でWindows9xを起動。当然にPnPによってWindows9x用ドライバのインストールが要求される。

 PC/AT互換機版(PC-98用は存在しない)のWindows9x用AudioPCIドライバをインストール。

 再起動後、Windows9xでAudioPCIが使用可能になるも、ドライバ中のEAPCI.VXDというシステムファイルが、PC-98ではシステムタイマーに割り当てられているI-O Portの0020Hを叩くので、内蔵システムタイマーが張り切って暴走を開始(爆死)。

 そのままタイマを再設定せずにWindows2000のインストールを開始。

 最初は特にタイマを見に行かないのでインストールがさくさく進む。

 再起動してシステムがある程度立ち上がったところで、先にインストールしたファイル群の前後関係や時系列の順序を確認しようとするも、そもそもログファイル内に記録されている書込時間のデータが無茶苦茶(2345年8月21日の書込の次に1983年4月2日の書込、とか(笑))なので判別できず、固まる。

 

 あくまで推測に過ぎないが、状況やログを検討するに、こういう症状が発生していた様だ。

 まぁ、原因が判ってしまえば解決も左程困難ではないのだが、こういうトラブルの常として、そもそも原因の特定が極めて困難(今回の場合、98に入れているHDDが凶状持ちだったのでそちらから疑わざるを得なかった)であったので、どえらい時間がかかってしまった。

 そんな訳で、ドライバのファイルをバイナリエディタで書き直すのも面倒なのでサウンドカードを入れ換え。

 結局元通りAV511になってしまった(苦笑)。

 

西暦2000年7月12日

 無事起動するようになったXv13のWindows 2000でHD Benchを走らせてみる。

 結果は1024*768の16bitカラーでトータル6,000と少し。

 同環境のWindows 98上で計ってみると10,000少々だったので、少なくともHD Benchの測定の範囲では、Windows 98と2000の間には結構な差が存在している事が知れる。

 只、現状ではWindows 2000用の正規WGP-FX16Nドライバはリリースされておらず、Windows NT 4.0用のドライバで代用しているので、もしかするとこれも結構響いているかも知れない。

 まぁ、基本的にこのマシンはPC-98シリーズ用DOSゲームを快適にプレイ出来る事に主眼をおいてセッティングしたマシンなので、Windows環境は基本的にLANによるファイルのやりとりさえできれば一応OKというスタンスで構築してあり、DOS環境に影響が大きいという理由でCPUの強化さえ制限しているから、Windowsのパフォーマンスは余り気にしていないのだが(苦笑)。

 

 意を決して、先日入手した2つ目のApple Extended Keyboard (M0115J)の外装プラケースの上面をペーパーがけして研いでみる(爆)。

 あまりに日焼けによる斑が酷かったのと、その割に内面が綺麗(経年劣化していない)だったのとに後押しされての試みだが、いやぁ、本来の成形色で見ると全然印象が違うね、このキーボード(苦笑)。

 流石はフロッグデザイン、と思い知らさせられた気分だ。

 

西暦2000年7月13日

 Windows 2000に関する書籍を買ってみる。

 Networkに関する章は面白かったけど、後は特に読む所が無いなぁ(苦笑)。

 只、ライター氏の苦悩というか苦労はよく判った。

 大きな欠点は軽く流し、大した事の無い「新機能」を特筆大書する、という不毛な作業にはさぞや苦痛が伴った事であろう(苦笑)。

 まぁ、それでも「嘘」が無い(その為に払われている言い回しや表現の上での努力と注意たるや、涙ぐましいものがある)のはぎりぎりの、せめてもの良心の表れという奴で、その点は好感が持てた。

 

西暦2000年7月14日

 集英社から“スーパーダッシュ文庫”なる新文庫が創刊された。

 初回ラインナップは5冊。

 で、気が付くと全部買っていた(爆死)。

 正直、悩む暇さえ惜しい。

 印象としては何気にメディアミックス展開を目論む集英社版「電撃文庫」といった所か(苦笑)。

 流石老舗と言うべきか、「電撃」のツボを外してサンライズ系マイナー路線(あの“ボトムズ”で知られる高橋良輔監督の新企画(新作ではないところがミソ。キーワードは「京浜静脈瘤」(笑))+“星方武侠アウトロースター”の外伝というか新作)+αが主軸ってのはねぇ(笑)。

 初回ラインナップだけでは方向性は推し量れないのだが、それでも今回はある程度方向性を揃えてのスタートなので、あのスーパーファンタジー文庫の迷走(一頃はすっかり“やおいファンタジー”の巣と化していたものなぁ)のに対する反省はあったのだろう(苦笑)。

 因みに、高橋氏の分はレストアしたTa152 vs ワスプメジャーを積んでしまった(!)F8Fのエアレースを大口径超望遠レンズを装着したF3で低感度で粒子の細かいフィルムを使って撮る、などという非常にマニアックな男の子の夢(爆笑)が満載のイカした連作カメラマン小説だった(笑)。

 

 遂に、というか漸く、というか、ともかくあの伝説の怪作OVA、“ロボットカーニバル”がDVDで再発売される事を知る(喜)。

 これはあの“AKIRA”の大友氏の下に集まった、当時の若手一線級アニメーター達による“ロボット”にまつわるオムニバス形式の作品(今にして思えば、最も「日本的」なアニメーションを象徴するキーワードである“ロボット”をチョイスしてのけた企画者の洞察力たるや、並々ならぬものが感じられる)で、それ故当時の各話の担当者のセンスや力量がストレートに現れた、ある意味非常に残酷なところのある企画だった。

 実はこの作品、たった一度だけLDが初回限定で(号泣)発売されていたのだが、つい最近中古屋で見たらなんと\38,000という物凄いプレミアが付いていた(泣)。

 因みに私がこの作品を欲しがる理由はただ一つ。

 北久保弘之監督の「明治からくり文明奇譚 〜紅毛人襲来の巻〜」がもう一度見たいからに他ならない(苦笑)。

 このおよそ一時間半の尺のなかで僅か10分にしかならない作品には、その為だけに金を払う価値がある。

 何しろキャラデザがあの貞本義行で、声の出演が富山 敬・塩沢 兼人・横山智佐(デビュー直後!)等という、たった10分の小品に投じるにはあまりに贅沢なスタッフを揃えて作られ、見るからにセル枚数を注ぎ込んだこの作品は、日本のアニメ史でも有数の馬鹿話の大傑作(笑)だったのだから(苦笑)。

 ああ、早く観たい(爆死)。

 

西暦2000年7月15日

 何という事だ、“ロボットカーニバル”の初回限定DVDは既に予約締め切りだと?

 一体何時から予告や宣伝していたのだろうか。

 これは困った(溜息)。

 8/23に店をうろつくしかないか・・・。

 

 Intelのサイトで同社製M/B用ES1373(サウンドチップ)Windows2000対応ドライバが公開されたので落としてみる。

 本当は契約上まずいのかも知れないが、その内TYANのサイトにも出るだろう。

 因みにサイズは15MB(爆死)。

 内容は果たしてCreative社のSoundBLASTER PCI 128用ドライバそのもので、ウチのマザボでは使えないアナログ出力のSPDIF切り替え設定まであった。

 インストールして動かしてみると、あのEnsoniqの音色セット(2/4/8MB)を使う内蔵シンセが正しく使用可能になっていたものの、相当重いらしくCPU負荷がかなり大きい事が判った。

 もしかすると、Xv13にAudioPCIを入れなかったのは正解かも知れない。

 もっとも、YMF-7x4系のDS-XGシンセと異なり、Windows 9x用で提供されていた機能がほぼフルにサポートされていたので、これは方針の相違という事かも知れない。

 まぁ、軽い動作を求めるならばOS標準内蔵のドライバを使ってくれ、という事なのだろう。

 

西暦2000年7月16日

 久々に日記更新。

 サイトコンテンツの更新作業も行っているのだが、日記の6月分がまだ打てない(泣)。

 思った以上に分量が多いのだ(爆死)。

 

 今日は月蝕。

 生まれて初めて見た。

 まぁ、そんなに有り難い物でも無い訳だけど(苦笑)。

 

 AT3号機に挿してあるSCSIカード(DC-390F / Tekram)のBIOS ROMの更新書込に失敗して、OSが起動しなくなってしまう(泣)。

 おまけに何が悪かったのか、FD起動さえ出来なくなってしまった(号泣)。

 で、そのままではどうにも仕様がないので、「BIOS ROMを抜いた状態のSCSIカードを挿してFDからDOSを起動し、通電状態でむりやりそっとROMを差し込んで、その場でファームウェアを上書き」という強硬手段を執る。

 幸い作業は平穏無事に完了し、再びシステムが立ち上がる様になったが、正直言って心臓に悪い話ではある(苦笑)。

 

西暦2000年7月17日

 梅田のロフト地下にあるテアトル梅田で15日から公開中の「人狼」を観る。

 架空の昭和30年代を舞台に展開する「或る戦後史」とでもいうべき性格の作品だが、これはもう「非常に高等な童話」と言うべきかも知れない。

 その緻密且つ圧倒的な描写と演出、それに丹念に描かれるあの時代の風物が強烈な印象を残す作品だが、低い連続的な唸りを発するMG42(34か?)の射撃シーン、あるいは同銃の最も良く知られた特徴的な機構である、交換式銃身(それだけ消耗が早いという事だ)を挿入する演出の入った整備シーン、そして如何にも趣味的な路面電車(東京都交通局6000形)の走行シーンが個人的にはナイス(笑)。

 欲を言えば、6000形については美濃部都政下でのあの決して趣味が宜しいとは言えない黄色に赤帯ではなく、新造時からの落ち着いた旧塗装(窓回りベージュに腰板及び幕板が濃緑色。現在荒川線で動態保存されている6122号車(だったか?)がこの塗装に復元されている)の方が良かったが、1シーンだけだが7500形も出ていたので、時代考証的には黄色に赤帯が正解か。

 実を言えば、そんな細々した事はどうでも良くて、あの何とも言い難い凄惨さと不思議な透徹ぶりの共存する、重層的なメルヒェンとしての物語構築に成功しているのが本当に素晴らしいと思う。

 

 ただ一つ不可思議なのは、これほどに完成度の高い、或る意味今時の浅薄な実写映画よりも余程「日本映画」としての体臭を感じさせる映画を完成から実に一年半も放置した、日本映画界の不見識ぶりだ。

 それは才能も力量もある一人のクリエーターの、そして彼を支える多くのスタッフの仕事を完全に黙殺したという事であるが、この映画に含まれる或る意味非常に残虐と捉えられるシーンの持つ意味を表層的に捉える分には、アニメ=子供向けと短絡的に結び付けて考える今の日本の大手映画配給会社(彼らの頭の中には稼ぎ頭としての「ドラえもん」と「ポケモン」、それに「クレヨンしんちゃん」しかないのではあるまいか?無論、それらは作品として見た場合非常に良心的且つ誠実である事が多いのだが)がこの作品を取り扱う事は、事実上不可能なのかも知れない(嘲笑)。

 まぁ、表現者としての誇りも勇気も何も無い様な、毒にも薬にもなり得ない様な愚作を平気で「大作」と称して大々的に宣伝し、垂れ流しにしている今の日本映画界には、北野監督の一連の作品に対する扱いを見ても判る通り、この種の鋭く社会性を備えた作品を広く配給する勇気が無いのは事実(苦笑)だが、その一方で観客の側にもかつての黒澤・小津の全盛期に見られた様な、こういったシビアな作品(それは決して娯楽作品では有り得ない)を受け入れ評価する高い見識あるいは審美眼といった物が欠落してきているのも確かで、その意味では関係者がこの作品の扱いに苦労したであろう事は良く判るのだが(苦笑)。

 取りあえず、大阪では7月の終わり頃までは確実に上映しているらしいので、最低でももう一度は見に行こう(笑)。

 そういえば岡山のシネマクレールでもこの映画を上映するそうだが、例え小規模であってもこういう作品を上映し且つ受け入れるだけの場と観客層がある、という点で(例え田舎ではあっても)岡山という街は良かったのだな、と今にして思う。

 何より、それが文化という実体の無いモノの厚みにつながるのだから。

 

 ディーゼル乗用車が近い将来、実質的に全面禁止される、との報を目にする。

 それなりに高邁な理想を持って制定された筈の85年規制を寄って集って有名無実化してのけた運輸省と自動車業界も、15年も経って環境がここまで悪化すると、流石に厚顔無恥を続けられなくなったという事か(笑)。

 本当は大型車をこそ規制せねばならないのだが、アレこそ代替が困難(過去に鉄道省→運輸省が西成線のガソリンカー脱線火災事故で得た教訓から言うと、大型ガソリンエンジン車は火災時のリスクがあまりにも大きい)だから、まずは容易に換えの利く乗用車から、という事になったのだろう。

 あるいは、バスなどでは最近になって(といっても10年程前からだが)HIMR(日野自動車が開発した、トヨタのプリウスと同系の電動機による回生制動/アシストシステム。モーターとバッテリー、それに複雑な制御装置を積むので重装備だが、エネルギー変換効率や制御の容易さで優位に立つ。関西では大阪市交通局が改良と普及に熱心である)やMBECS(三菱ふそうが開発した、エアモーターによる蓄圧/解放を利用したアシストシステム。一種の“空気によるゼンマイ仕掛け”みたいな物なので割と安く軽く造れるが、制御の柔軟性にやや欠ける。坂道の多い土地では有利なのか、神戸市交通局が大量導入している)といったディーゼルエンジンを極力使わせないシステムが普及しつつある(話によれば、空気の清浄さがウリの上高地などはHIMRの天下と化しつつあるらしい)が、容積の小さな乗用車ではこういったシステムを組み込む余裕がないのも理由かも知れない。

 まぁ、何にせよ輸送人員の割に排ガスを大量にまき散らすディーゼル乗用車が撲滅されるのは誠に結構な話だ。

 この分だと鉄道のディーゼルカーも規制がどうのと言われる様になるかも知れないが、あれこそ電化でもしない限り代替の仕様が無いからなぁ・・・(溜息)。

 

 AT3号機に挿してあるAudio PCI用のWindows 2000対応ドライバがCreativeのサイトで公開されていたので落として入れてみる。

 ・・・何じゃこりゃ?

 良く見たらユーティリティはCreativeオリジナルの新しい物がインストールされているが、デバイスドライバはMS社製の標準ドライバのままじゃないか(驚愕)。

 という事はES1373用の新ドライバでは可能になっていたEnsoniqの2/4/8MB音色セットを用いたシンセが使えないのか・・・(溜息)。

 

西暦2000年7月18日

 Oh!PC誌の最終号を購入する。

 「Oh!」を冠した、SOFTBANK創業期以来の機種別定期刊行雑誌群の最後の生き残りが遂に終焉の時を迎えたかと思うと、感慨もひとしおだ。

 気付いてみればあの頃から今まで、途切れもせずスタイルも変えずに続いているPC雑誌は、これで「ASCII」と「マイコンBASICマガジン」の2誌位の物になってしまった。

 只、生き延びていたとはいえ、Oh!PCはPC-88時代から何度も方針転換を繰り返してきた、如何にも機会主義者的(苦笑)な雑誌であったので、その意味では潰れた事には余り感慨は無い(笑)。

 一言で言ってしまえば、「どるこむ」の益田氏がいなくなった時点で、あの編集部は一貫した編集方針というモノを見失ってしまった様に見えたので(苦笑)。

 まぁ、PC-98という金看板を当のNEC自体が「無かったこと」にしようとし始めたのだから、PC-98の大政翼賛雑誌(爆)であったOh!PCがその方針を定められずにふらついたのもある意味無理のない話ではある。

 もっとも、同じ様な、いやそれどころかもっと凄まじい状態(何しろ対象マシンであるX680x0シリーズが終焉を迎え、あらゆる意味でその後継となりうるマシンが出なくなってしまった)に置かれていた最末期の旧Oh!Xが、月ごとにどんどんページが薄くなる(爆)という、考え得る限り最もひどい状況に陥りつつもその方針を遂に曲げず、普段通りの姿で95/12の最終号を迎えた、という先行事例を知る者にとっては、足腰の定まらなくなったPC98-NX登場以降のOh!PC編集部の姿勢というのは酷評の対象以外何物にもなり得ないと思う。

 究極的には、ユーザーを啓蒙し育てるという本来的にPC雑誌が果たすべき姿勢を、只基本的に新製品の紹介とその利用法説明にしか振り分けられなかった=ソフトウェアを自ら書く、という事に対する手当を何一つ行わなかった事こそが、あの雑誌の寿命を縮める原因となったのではあるまいか。

 また、NX以降のNEC製品の新製品紹介は別にOh!PCの様な98系雑誌だけではなく、大概のPC雑誌で見られる様になった。

 恐らくそれはNEC自身の望みでもあった筈だが、それが実現されてしまえば、何処の雑誌ででも知る事の可能になったNECの新製品情報を読むのに誰もわざわざOh!PCを買ったりはしなくなった訳だ(苦笑)。

 ついでに言えば、その誌面構成上同誌ならでは、という要素が殆どなかった事も又、同誌の敗因の一つである。

 先に挙げたOh!Xが今再びムック形式で復刊できているのも、ユーザーを突き放して鍛える=「無いモノは自分で何とかする」という硬派な姿勢を貫き通し、その姿勢を貫くが故にハードウェア等の詳細な情報提供とその解説に重点を置いた誌面構成を採り続けた結果、多くの開発者を育ててきたからこそ、という面がある事は否定出来ないだろう。

 こうして考えてみるとここ2年程のOh!PCの特集が如何に印象の薄い物であった事か。

 まぁ、潰れるべくして潰れた、そういう事だな(苦笑)。

 

西暦2000年7月19日

 明石に出向き、普通自動車免許を取得。

 やっと終わった。

 

 内蔵用68ピン3ヘッドUW-SCSIケーブルを購入。

 PC-9821Xv13/W16に内蔵してあるViking II 9.1GBとAHA-3940UWDをWide接続する為に買って来た(これ迄はケーブルが足りなかったので変換アダプタを介して50ピンケーブルで繋いでいた)のだが、奇怪な事には理屈上高速な筈のWide接続の方がこれ迄のNarrow接続の時よりも僅かだが低速である、というベンチ結果が得られてしまった(爆)。

 一面では内蔵コントローラやキャッシュメモリの性能、それに何よりHDDとしての基本性能が今の基準に照らせば決して高速とは言い難いViking IIでは、Wide化に伴うSCSIバスのアダプタ−HDD間の通信の増大がオーバーヘッドを起こしているのかも知れない。

 

 某雑誌の記事を読んでAT3号機のBIOS(AWORD)を組み替えてみる。

 CBROM.EXEという専用のアーカイバ(そういう他はない。因みにAWORD BIOSは各モジュールをLZH圧縮して組み込んであり、起動時にRAM上にこれを解凍・展開する)を用いて内部モジュール(基本機能・CPUエラッタ修正用マイクロコード・ウィルスチェッカ・SCSI BIOS等)を追加・更新・削除するのだが、ここでMS-6163の本来のBIOSに書き込まれていたNCR(→SYMBIOS→LSI Logic)の53c8xx系SCSIコントローラ用BIOSを削除し、DC-390F用のBIOS(INT13F.BIN)を追加してみるも、無惨に失敗(泣)。

 やはりDC-390Fのハードウェアには何かつまらない小細工が施してある様だ。

 

 公開されたばかりのWindows Multimedia Player 7をDLしてインストールしてみる。

 確かに見てくれは改善され、機能も増えているが、何処か基本的な使い勝手が置き去りにされている様な印象を受ける。

 CPUパワー無駄使いして見てくれを派手にされてもなぁ・・・(苦笑)。

 

西暦2000年7月20日

 4/1に満開製作所が68事業からの撤退を発表して以来、行く先が決まっていなかったあの「零式」プロジェクトが、いつの間にか新会社に引き継がれていた事を知る。

 ・・・それにしても、凄いよなぁ、新会社の名前(笑)。

 来栖川電工

 ってのはちょっと度胸あり過ぎ(苦笑)。

 まぁ、代表者の方の苗字らしいから、これはもうやった者勝ち(笑)って話もあるけど、その筋のヒトなら一度聞いたら絶対忘れられない社名だよなぁ(苦笑)。

 

西暦2000年7月21日

 「鉄道ファン」と「鉄道ジャーナル」の今月号を購入。

 行きの新快速車中で読む。

 「ファン」誌に載っていた陸軍兵器廠の記事はインパクトがあった。

 ・・・まさか今から10年程前に今は亡き下津井電鉄下津井駅で見た、下松工業高校所有の石川島造船所製B型サドルタンク機のオリジナルが、実は大阪の兵器廠向けにボールドウィン社が製作した860mm軌間(記事にも載っていたが、何でこんな珍しい軌間にしたのやら(苦笑))のB型タンク機で、しかもそれが私にとってはなじみ深い山陽電鉄網干線の建設工事用に山陽電鉄に払い下げられていたというのは、全くもって夢想だにしない話であった。

 私が知る範囲では、かつて山陽電鉄は1輌の蒸気機関車を保有していた。

 それは明石−姫路間を結ぶ直線主体の本格的な高速都市間電鉄として開業した、神戸姫路電鉄(現在の山陽電鉄本線の一部)がその建設工事のために東京深川の雨宮製作所に発注した“1”で、雨宮製作所製の国内向けでは極端に少ない標準軌間のタンク機関車であった。

 この機関車は明石−姫路間開通後も長らく飾磨車庫に放置され、網干線の建設に当たって使用された後、昭和30年代に入ってスクラップとして処分された(少なくとも昭和20年代前半は飾磨車庫に鎮座していた事は確かだ。私の父によればその当時、仲間の子供達と共に車庫に入り込んで件の機関車で遊んでいた由である)事が記録に残っていたから、てっきり網干線の建設工事はこの機関車だけで行われたものと思っていたのだが、まさか2フィート6インチ軌間のトロッコにまで蒸気機関車を持ち込んでいたとは思わなかった。

 実際問題として、昔母校(姫路西高)の図書館で読んだ同社の社史にも、そういう記述を見た覚えがないから、稼働中の機関車の写真まで掲載されたこの記事は、正に“新発見”なのだろう。

 ・・・全くもって鉄道研究は奥が深い。

 

 先の北勢線廃止問題がジャーナルに載っていた。

 やはり車輌の更新問題がネックになっていた様だ。

 かつての下津井電鉄並に、全線で約20kmの路線長を持つあの路線ならば「本物の軽便」である事を生かした売り出しの方法はあると思うのだけどなぁ(溜息)。

 小型の蒸気機関車(出来ればコッペルの8〜12tクラスのB/Cタンク機(レプリカでも可)が望ましい)と木造の小型オープンデッキ客車を用意して走らせるだけでも客は呼べる(笑)。

 少なくとも、昨今流行の「トロッコ列車」よりはずっと良いと思うがどうだろうか。

 

 ポン橋の某ショップでかなり状態良好のApple Extended Keyboard II (M0312J)を1つ中古で入手。

 頼まれものだが、正直ここまでコンディションが良好であるとは思わなかった。

 その後、中古で5V 168ピンの16MB DIMMを1つ入手。

 これでやっとウチのPM8500/132のメモリ量が72MBになる。

 これだけの事だが、実施後IE等の動作が急激に高速化されて驚く(苦笑)。

 つくづく大量のメモリを要求するマシンだ(笑)。

 空きのソケットは残り3つだが、挿してある中に低速の70ns 8MBのDIMMがあるので、これを交換するとすれば残り4つのソケットがあるという事になる。

 つまり全部16MBとすれば、16*8=128MBまでは拡張が可能という事だ。

 もっとも、全部16MBで埋めるつもりはないが(苦笑)。

 

 難波から新大阪まで戻るのに市交1号線に乗車。

 幸運な事には、あの市交10系や21系ではなく、乗り心地の素晴らしい北大阪急行8000系がやって来た(喜)。

 阪急電鉄の子会社である北大阪急行電鉄がその創業20周年を記念して建造開始した、8000系“Polar Star”は私の知る限り最良の通勤電車の一つだ。

 車両限界の小さな地下鉄用故の天井の圧迫感を極限まで押さえ込む為に本当に巧妙に、そして非常に美しくまとめられた冷房の風洞回りの処理。

 私の知る限りこれ以上は無い位秀逸な乗り心地を保証する、住友SS(Super Summit)ボルスタレス台車。

 そして何より、本家阪急電鉄のそれに倣った、やや濃い目の木目焼き付けアルミ板による、落ち着いた内装と座り心地の良い座席。

 「通勤電車のあるべき理想の姿」

 そう言っても良い位、この電車は良く出来ている。

 元来関西は私鉄王国と呼ばれ、並行する各社の競争が非常に激しい土地柄であり、それ故各社共に座席の座り心地等には物凄く気を遣う傾向があるのだが、北大阪急行は千里ニュータウンの足であって特に並行線を持たないにもかかわらず、同社が満を持して送り出した(同社が開業以来使用してきた2000系電車は、1970年の万国博覧会観客輸送対策という事で、悪評高い市交30系に毛が生えた程度の安い仕様で建造されていた)この電車は間違いなくこの20年間に建造された通勤電車中でも5本の指に入る絶妙な座り心地の椅子を備えており、その上に長距離を立って乗車しても疲れさせない(これは通勤電車の場合何より重要な特質だ)揺れの極端に少ない台車を履いているのだから、この様な賛辞も決して過剰では無いだろう。

 その素晴らしさは、同じ路線を走り、しかも設計時期が更に新しい市交21系と乗り比べてみれば容易に理解できると思う。

 8000系が設計された頃は丁度バブル期の真っ最中で、電鉄会社にも余裕があったから、この頃の関西各社の新車はどれもしっかりお金をかけられたお陰で飛び抜けたオーバークオリティを実現してしまっていた(あの近鉄21000系“URBAN LINER”や5200系、京阪8000系、それにJR西日本221系などがこの時期の設計だ)のだが、それにしてもたかが通勤車にここまでの車輌を建造してしまうというのは凄い話で、その建造から10年以上が経過した今もなおこれ以上のクオリティの車が現れていない事から考えても、文字通り時代を超えた傑作である、と断言できよう。

 そんな車だけに、この電車に乗るのは毎回凄く楽しみなのだが、やはり今回も充分に満足が得られた。

 この系列に欠点があるとすれば、それはあまりに乗り心地が良いので目的地を越えて乗り越してしまいそうになる事だろうか(苦笑)。

 

西暦2000年7月22日

 極めて暑い一日。

 

 茅田砂胡の「スカーレットウィザード 3」を購入。

 相変わらず怪獣大決戦だなぁ、この人の作品は(笑)。

 

 新大阪駅を出てすぐ、宮原への出入庫線をクモヤ145−マヤ34−クモヤ145の事業用車による3連が走るのを目撃。

 最近は本来客車である筈のマヤ34も、電車のトレーラー扱いか(苦笑)。

 前後のクモヤがパンタを上げていたという事は、マヤにも制御線の引き通しが行われているのだろうか?

 無論、運用上はそれが合理的であり正解なのだが、事業用車とはいえ完全に国鉄型の電車−客車−電車という編成に何か違和感を感じるのは、やはり年を喰った証拠だろうか(笑)?

 

西暦2000年7月23日

 朝、新大阪駅で下車した際に、岡大S-FANの後輩であるK君に遭遇する。

 何でもMAGIC(カードゲーム)の大会が淀川区民センターであるのだそうで、18きっぷを利用して始発で来たのだそうだ。

 でも、本当は大阪駅で降りる筈だったのだが、寝過ごして新大阪で下車した由で、全く偶然の遭遇だった訳だ。

 で、放っておくのもナニなので、時間もある事だし同センターまで道案内。

 多少迷ったりもしたがどうにか予定時間内に送り届ける事に成功。

 まぁ、あのあたりの地理的情報が手に入った事で良しとしよう(苦笑)。

 

 赤城毅の「帝都少年探偵団」を購入。

 ・・・いやぁ、趣味だねぇ(笑)。

 

 またもやポン橋でMac用5V DIMMを1枚購入。

 インターリーブ動作を考慮して、前回と同一型番のメモリチップを載せた16MBのモジュールを購入。

 これで88MB(笑)。

 やっと、という感が強いが、挿して動かしてみると、IE 5を中心に、かなり動作が軽くなっているのが解る。

 Macはメモリを積めるだけ積め、というのはこういう事か・・・(溜息)。

 CPUを全然強化していないのにこれ、という事はやはり相当にメモリ量に依存した設計のOSなのだろう。

 まぁ、Motorola系のCPUには、MC68000の頃からそういう傾向があったのは確かだが(苦笑)。

 

西暦2000年7月24日

 今日から4日間は学校が休み。

 そんな訳で気になっていた部屋のマシンレイアウトを変更し、ついでに配線の整理を行う。

 流石にざるそば状態はまずい(苦笑)。

 ・・・4台のマシン、1台のCRT、2台のプリンタ、2台のモデム、1台のMIDI規格準拠音源ユニット、、1台のACディストリビュータ、1台のAVセレクタ、1台のPlay Station(笑)、それに1台のネットワークハブ。

 これだけの機材がそれぞれ異なった種類のケーブルで接続され、しかもそれ以外にキーボードやマウスなどの入力機器がぶら下がっているのであるから、当然に配線は複雑にならざるを得ないのだが、流石にここまで入り組んでくると、もう少し何とかならないものだろうかと思う。

 こういう状況を避けたいからこそ昨今のPCはケーブルレスやUSB/IEEE1394などのケーブルが“シンプル”である事が売りのシステムが流行っているのだと思うが、そういったシステムはシステムでそれぞれ固有の問題を抱えているから、結局のところ現状のシステムで時々機会を見つけてはメンテナンスをする、というのがパフォーマンスや費用対効果の点では一番賢い選択なのかも知れない。

 まぁ、要するに普段からちゃんと手入れしていれば多少配線が複雑でも気にならない訳だ(笑)。

 

 Audio PCIのWindows 2000用ドライバがインストールされない原因が判明。

 何の事はない、Creativeが自社ブランドで売った分以外はチェッカで撥ねていやがった(怒)。

 まぁ、Ensoniq社はリファレンスデザインごと台湾の各メーカーにES1370チップを大量供給していたから、これらのカードでまで自社のドライバを使われるのが厭だったのだろうけれども、純正品のユーザーを放置する(EnsoniqのサイトにはWindows 2000用ドライバは今の所出ていない)というのはそれはそれで筋が通らないぞ。

 Ensoniq社を吸収合併したのなら、そのユーザーに対するフォローの責任あると思うのだけどなぁ。>Creative

 

西暦2000年7月25日

 2型8号、暫定竣工。

 例によってあれやこれやと重箱の隅をつつく(笑)。

 ついでに6月分の交信記録の内、22日分までをUpload。

 後1週間がなかなか打てない(泣)。

 

西暦2000年7月26日

 漸く6月分の交信記録を打ち込み完了。

 

 断線していたCRT切り換え機の1ch分の配線を再度半田付けして接続。

 これを介する事で発生する画質低下は問題だが、これを利用出来る事による利便には代え難い。

 

 エール・フランスのコンコルドが昨日墜落したとの報に驚く。

 左側2基のオリンパスエンジンのどちらかが火を噴いたのが直接の原因と見られているが、恐らくこれはコンコルドだから、という種類の事故ではあるまい。

 それを裏付ける様に、コンコルドを運航する世界でたった2つの航空会社の片割れであるブリティッシュ・エアラインは(剛胆にも)事故直後だというのに自社保有のコンコルドの運航を再開した。

 同社は事故直前に自社保有コンコルドの全てに異常を発見して、それら7機の内1機を退役処分にしたばかりなので、もうこれ以上は無い位万全の整備体制を取っているという事なのだろう。

 事故の犠牲者の魂の安寧と、何より今この時間も就航しているブリティッシュ・エアラインのコンコルドの無事故を、切に願う。

 

西暦2000年7月27日

 ・・・そうか、今はブリティッシュ・エアウェイズって言うのか(苦笑)。

 それにしてもエンジン修理ミスの可能性かよ(溜息)。

 

 2型8号の追加修正分をUpload。

 例によって重箱の隅をつつく様な修正(苦笑)。

 まぁ、それでも塵も積もれば何とやらで、決して馬鹿に出来た物ではないのだが。

 

 唐突だが、両親と共に兵庫県小野市の極楽山浄土寺へ(爆)。

 この寺は、平安末の平家による南都焼き討ちで焼亡した東大寺の復興の為に寄進された、播磨一円の寺領を管理する目的で創建された一種の出張所の様な性格を備えた寺院で、それ故に当時の東大寺の別当であった俊重坊重源上人の活動拠点として文字通り重用され、その堂屋の建設に当たっても彼が南宋で目の当たりにし、且つ学んだ天竺様(大仏様)と呼ばれる新しい建築様式がフルに活用された事が知られている。

 今日同寺を訪れたのも、この天竺様で建設され、火災その他の災難をくぐり抜けて生き延びてきた国宝 浄土堂と、その内陣に安置されるこれ又国宝の阿弥陀三尊(鎌倉初期 快慶作)を拝観せんが為である。

 

 県道と国道が複雑に入り組んだ、非常に判りにくい道を辿って漸く浄土寺に到着。

 ・・・何だよ、この果てしなく役に立たない標識の群れは(苦笑)。

 

 だが、そんな不満も境内に足を踏み入れ、簡素だが得も言われぬ存在感を湛えた浄土堂の特異な、そして非常に簡素なシルエットを目にした瞬間に全て吹き飛んでしまった。

 天竺様という建築様式は、ほぼ重源上人の存命中に彼が関わって造られた寺院に限られる、非常に珍しい建築様式である。

 実際、現存する純粋な天竺様の建物は僅かに二棟しかない。

 只、問題なのはその二棟の内、この浄土堂以外のもう一棟があまりにも有名な建物であるという事で、天竺様という極めて論理的且つ合理的な建築法の存在も、その建物の存在があればこそ世間に知られていると言っても過言ではない(苦笑)。

 

 その建物の名は東大寺南大門。

 そう、この浄土堂に安置されている阿弥陀三尊像の作者である大仏師快慶もその造立に携わった、あの果てしなく巨大で、しかも力感と量感に満ち満ちた造形の仁王像が左右に立つ、大仏殿の門前にそびえる東大寺の玄関口だ。

 前述の通り、この浄土寺は平家の焼き討ちで焼失した東大寺の復興の拠点の一つであり、堂屋の再建に必要となる資材を収集する役割を果たす寺院であったが、その一方でその勧進をスムースに進めると同時に、当時重源上人が重視していた浄土信仰の具現化を実現する、という目的も持ち合わせていたらしい。

 

 それ故、その境内の基本的な配置は浄土式庭園のそれに倣っているのだが、同時に、やはり重源上人が重視していた八幡信仰を持ち込んだ為に八幡社が習合された(当寺境内中央の池の北側に拝殿と本殿があり、池の真ん中には鳥居が立っている(爆)。如何にも本地垂迹の国らしい話ではある)為に、ある意味非常に日本的機会主義の象徴の様な、非常に混沌とした物凄いレイアウトになっている(苦笑)。

 正に、「おもえばかみもほとけなり」(西行法師)な時代の寺院だった訳だ。

 名号を唱えつつ来迎を待つ人を迎えに、遙か彼方の西方極楽浄土よりこの地を訪れられた阿弥陀様ご一行も、この有様にはさぞや困惑されたに違いない(苦笑)。

 

 それはともかく、一応は浄土信仰が看板(その割に、この寺院の本尊は浄土堂と池を挟んで相対する薬師堂(創建時は天竺様であったが室町期の焼亡後、天竺様+和様+唐様のキメラの様な特異な構造で再建された)に坐す薬師如来であったりする。つくづく謎の多い寺だ)なので、この浄土堂は非常に気合いの入った設計で、西日の射し込む時間に拝観すると、まさに西方に沈まんとする太陽の光が西側の壁一面に設けられた蔀戸の障子から差し込んで、それを背景にして内陣中央に立つ阿弥陀三尊が光の中に浮かび上がるという、誠に幻想的且つ厳かな光景が、そう、まさに来迎を目の当たりにするが如き光景がその場に現出する事になるという、素晴らしい演出が構造的に仕掛けられている。

 無論それが目当てでわざわざ夕方を狙って訪れたのだが、着いた時は曇り空で、果たして内陣も薄暗いままであった。

 それでも、初めて目の当たりにするその三尊の容姿はいずれも日本離れした、そう、まるで同じ頃の南宋の仏画を見る様な特徴的なもので、非常な感動が得られた。

 快慶の作という事であったのでもっとダイナミズムに満ちた造形なのかと思っていたのだが、非常に端正な造形の像であった事も印象的だった。

 だが、私にとってはそれ以上に、これ又初めてお目にかかる事となった(東大寺南大門は何と言っても門だからねぇ)天竺様の建物の内部構造(天竺様の場合、内部には天井板が張られていないのが特徴で、その個性的な構造が目の当たりに出来る)の理知的な構成の方が強烈で、これ以上はない位シンプルな部品構成でこれ以上はない位大きな建物を作り上げる(それこそが、重源上人が東大寺復興にこの様式を採用しようとした最大の理由である)その合理性と、それ故に求められた、鎌倉時代の工人達の寸毫の狂いも許さない卓越した工作精度(部品点数が最小限という事は工作ミスをしてもごまかしが全く利かない。後年採用例が絶えたのもこの辺の厳格さに依る所が大きいのではないか?)には只々感嘆するばかりであった。

 

 で、あれやこれやと細部を眺め回って、小休止という事で祭壇正面の特等席(笑)で一休みしていたら、いきなり団体客が押し寄せてきた(笑)。

 どうやら夕暮れ時の絶景を狙ったツアーらしい。

 流石にその中をかき分けて出て行くのも馬鹿らしいので、おとなしくしていたら管理人のご老人の良く聞き取れない解説が始まった(苦笑)。

 そして、彼の暗がりの中での懐中電灯を使っての熱演が最高潮に達した頃、それは起きた。

 

 それまで曇って今一つ明るくなかった西の空が、突如として晴れ上がり、堂内に溢れんばかりの陽光が差し込み始めたのだ。

 

 その時の感動は筆舌に尽くし難い。

 幾何学的、あるいは音楽的でさえある天竺様独特の木組に光が回り、幾分剥げ落ちたとはいえ金箔の残る阿弥陀三尊にその輝きが及んだあの瞬間を、私は恐らく一生忘れないだろう。

 

 燦然たる浄土。

 

 私は信仰を重んじる所の薄い人間だが、それでもあの光景には素直に感動を覚えた。

 原理としては他愛のない仕掛けである事は重々承知しているが、それでも尚、心の高ぶりを消す事は出来なかった。

 今から800年の昔、稀代のテクノクラートにして希有のタフ・ネゴシエィターであった一人の老人が構想したその幻想的(ああ、何と言葉は不便なものだろうか。斯様に陳腐な言葉を使わざるを得ないとは!)空間に鎌倉という時代の空気を見出した、そんな気がしたのだ。

 

 いや全く素晴らしい体験であった。

 

西暦2000年7月28日

 映画「人狼」、2度目の鑑賞。

 窓口で前回のチケットを提示したら、リピーター特典とやらで特製のポストカード3枚セットをくれた(喜)。

 なかなかナイスなサービスだ(笑)。

 

 前回観た時には話を追いかけるので精一杯だったのだが、今回は細部を観察する余裕があった。

 BGMのギターは今堀恒夫、ベースは渡辺等、それでもってオケはチェコフィルだな、これは。

 流石にこの位は聴けば判別がつく(苦笑)。

 この映画の音楽担当の溝口肇という人の作品とは、彼の通算3枚目だったか4枚目だったかのアルバム“A Pretty Dance”(CBS/SONY 28AH2203:番号で判った人もいるかも知れないが、最初はLPレコード(笑)で、これは今も大事に持っている)を中学生の時に買って以来のお付き合いになる。

 それ故、彼の手がけた作品であれば大体固有の癖が判別出来る様になった訳だけど、それぞれのミュージシャンに興味がない人にはまぁどうでも良い話ではある(苦笑)。

 

 ・・・前回確認しそこねた一瞬だけ登場する都電7500形(デパート屋上から見下ろすシーンに登場)の番号は7515、つまり1963年12月に今は無き都電青山車庫に搬入された7500形20輌の内、都電最初で最後の新潟鐵工所製車輌となった7511〜7520(ちなみに残りの7501〜7510は日本車輌製造本店製)のグループに属する車であった。

 つまり、この1シーンだけでもかなり時代や地理関係は絞り込みが出来る訳だが、注意して見てみると、6000形の走行シーンで掛かっている系統板には都電には有り得なかった“01”という表記があった(そういう場合は“1”と書く)から、フィクションならではの方便については正しく考慮する必要がある。

 余談になるが、本物の1系統は品川−銀座−上野という東京のメインストリートを結ぶ路線で、5500形(和製PCC車(PCC車というのはアメリカの電鉄会社の社長さんの集まりが、当時台頭しつつあった自動車に対抗する為に研究開発した、スーパー路面電車の事。但し日本では結構曖昧な言葉として用いられている)として知られた高性能大型電車。試作車でアメリカ製の電装品を輸入して取り付けた純粋なPCC車である5501号、それに先行して国産で研究開発した新型機器を装架した5502号、そして一応量産車として建造された5503〜5507の計7両が存在。車体が大き過ぎて直線主体の1系統以外には入れられなかったという逸話がある)と6500形(5500形のテストベッドのつもりで建造された6000形と同サイズの車体(但し前面デザインは変えられた)に、後から5502と同一の機器を積んだ(積む筈の機器は予定より早く出来た5502の車体に取られてしまって、暫く車体だけ浮いていた)試作車)、それに7000形7020号(確か東芝製の超多段制御器やカルダン駆動システム、それに新型のブレーキを搭載した、主力車である7000形の中の異端児)といった当時最新鋭の試作車が集中投入されていた事でも知られている。

 その意味で、7500形以外6000形しか出ないというのは、1系統にあるまじき状況ではある訳だ(苦笑)。

 

 何やらおマニア様な話になってしまった。元へ戻そう(苦笑)。

 

 それにしても、ここまで「日本人」の顔にこだわった商業アニメというのは初めてではなかろうか?

 あのパトレイバー2(この映画の監督を務める沖浦氏も作監として参加している)もその辺をかなり意識していたと思うが、それでも手塚治虫以来のコミック/アニメ作法の枠内で収まっていた。

 それと比べれば、この作品は善し悪しとは別の部分で間違いなくある一線を、宮崎駿をはじめとする先達が遂に越えずに来たボーダーラインを、越えてしまった事になる。

 そう、彼らは日本アニメ史上におけるルビコン河を渡ってしまったのだ。

 恐らくその結末に関しては、解釈/賛否がかなりはっきり分かれるのではないかと思うが、このヘヴィな手触りを備えた地味な物語は、少なくとも高い評価に値する作品である。

 正直、好きや嫌いといった些末事とは別の次元の話だと思う。

 

 奇才、高野史緒の「ウィーン薔薇の騎士物語3」と、野尻抱介待望の新作、「銀河博物誌1 ピニエルの振り子」を購入。

 前者はもう、どうしようもない様な大技炸裂の反則技満載小説だ(笑)。

 この人はデビュー作以来ずっとこの道一直線(爆)の、ある意味とんでもない作風が売りなのだが、それにしてもこれは凄いよなぁ(苦笑)。

 奇策も続ければ王道だ、って感じでいっそ潔い(笑)。

 後者は「やられた!」、「その手があったか!!」という大変に清々しいSFの一品。

 デビュー作の「クレギオン」シリーズ以来、ハードなSFをやさしく読ませる能力に長けた人なのだが、これは上手い。

 

 「銀河博物誌1」に挟まっていたソノラマ文庫の新刊予告を読んでいたら、「星虫」の岩本隆雄の10年目の第三作(爆)の予告があった。

 店頭で平積みになった「星虫」の奥付を確認したら第2刷になっていたから、余程「星虫」が売れたという事か。

 大いに結構(笑)。

 

 取りあえず彼の新作が読めるというのは非常に嬉しい事なのだが、個人的には第2作にして「星虫」の前日談に当たる「イーシャの船」(「星虫」は新潮文庫ファンタジーノベル文庫時代にも売れていた。お陰でこの作品が出た訳だが、岩本氏の希望でイラストレーターにあの「最終戦争伝説」の山田ミネコを起用した結果、好き嫌いが激しく別れた(知っている人は知っていると思うけど、前作とは一変した凄いイラストだものなぁ)のか、こちらは余り売れなかった)の再発を希望したい。

 というか、「星虫」ってそれ単体じゃぁ張り巡らせた伏線の60%位が未消化というか説明されていないものなぁ・・・(苦笑)。

 それにしても、最近のソノラマは往年の力が戻ってきたというのか、良い仕事をしていると思う。

 昔からの彼らの芸風の範囲内で、しかも角川系メディアミックス路線あるいはハヤカワ系ハード路線の双方が手を出しにくい部分で、はっとさせられる様な良作を繰り出して来ているのだ。

 思えば日本のジュブナイルSF小説の歴史は同社と共にあった。

 今後もそうであり続けて欲しいと切に願う。

 

 そういえば「星虫」で思い出したが、あの作品って実は1度NHK-FMでラジオドラマ化されているのだよなぁ(謎笑)。

 いや、そういう事には抜け目の無い私は、当然に当時買ったばかりのDATで録ったのだけど(笑)。

 あのテープどこへしまったのだったかなぁ・・・。

 

西暦2000年7月29日

 「シリウスの痕 2」と「最終兵器彼女 2」を購入。

 どちらも絵柄からは思いもよらない様なシビアな話だった(苦笑)。

 

 深夜、W.T.先輩とIRCで話す。

 先輩宅のEIZO Flex Scan E55D(ディスプレイ)がお亡くなりになったらしい(合掌)。

 先輩があのモニタを買ったのは確か97年の夏か秋の話だから、実使用3年で最初の致命的故障が出たという事か。

 96年の12月末に買った、私の所のE57Tが引っ越しを経験したものの特に問題無く稼働している事を考えると、恐らく製品のバラツキか、さもなくば使用環境に差があったのだろう。

 酷使しているという点では、恐らく1台しかまともなCRTの無い(先輩の所には19インチのE67Tもある)、私の所の方が余程シビアな使い方をしているとは思うのだが・・・。

 それとも、例え外見は似た様な格好をしていても上位モデルと中位モデルでは、部品の品質や設計に差がある(爆)という事だろうか?

 

 「星虫」関係のウェブサイトを検索していたら、朝日ソノラマのサイトに行き当たった。

 おお、岩本氏直筆の星虫デザインスケッチか。

 何かエエ感じ(笑)。

 ・・・そうか、やはり“イーシャの船”を出す予定はあるか。>朝日ソノラマ

 まぁ、当然といえば当然だろうけど。

 個人的願望としては、イラストは鈴木雅久氏希望(爆笑)。

 

西暦2000年7月30日

 プラモメーカーの旧日東科学が80年代半ばに倒産した後、同社の抱えていた製品の金型は唯一“S.F.3.D. Original”(現マシーネン・クリーガー)のモノを除いて(それでさえ、あのノイス・ポッター/クラッフェンフォーゲルの金型の一部が喪失してしまっている)尽く債権者の手で売却されていたのだが、その中で行方の判らなかった大河原邦夫デザインによるオリジナル変形ロボットシリーズである“オモロイド”が、実は紆余曲折を経て英国エアフィックス社に転売されていた事を今月のMG誌で知った。

 ・・・何故にエアフィックス??

 ご存じ無い方の為に説明すると、エアフィックス社というのはスピットファイアだのハリケーンだのといった精密な飛行機模型で知られた老舗のプラモメーカーで、如何にも大河原な(笑)SD変形ロボットとは全然縁が無さそうな会社なのだ。

 本当に一体何があったんだ(笑)?>エアフィックス

 それとも何か英国人の心の琴線に触れる何かがあったのだろうかねぇ? 大河原邦夫の可変メカデザインって(笑)。

 実際、あのシリーズはS.F.3.D.をやった後の、技術的に長足の進歩を遂げた後の日東の製品なので、価格や対象購買層から考えたらどう考えてもオーバークオリティな、非常に良心的な製品だったのは確かだが・・・。

 ちなみに日東科学倒産直前の製品ラインナップには、他に水木しげるの妖怪シリーズ(大型金型による一体成形の“一反木綿”なんてかなりとんでもない代物まで含む、傑作シリーズ。これは御輿だの城だのの模型で有名な童友社が買い取った)とオリジナルビデオアニメーション等の版権物(あの幻夢戦記レダのフィギュア&メカなんて物も出していたし、あのゴジラの“すーぱー×”(笑)のソフビキットなんて物もあった。ちなみにこれらは倒産後消息不明)等があった(無論、それ以外にもプロポーションの良かったトヨタスポーツ800等のカーモデルも多数出していた)。

 今思えばとても地味だが、他で換えの利きそうに無い難しい企画を実現してしまう、とんでもない会社だった。

 無論、そんな会社だったからこそ、あの奇跡の様な“S.F.3.D. Original”を製品化してしまえたのだけど(苦笑)。

 

 夜になって、久々にヴィデオを観ようとしてデッキ(HV-V700 / 三菱電機)にテープを突っ込んだら、ウンともスンとも言わなくなってしまった(爆)。

 で、テープ救援の為にやむなくカバーと底板を外してみると、駆動系のゴムベルトがゆるんで底に落ちていた(汗)。

 そりゃローディング機構も何も動く訳無いわな(笑)。

 これは大学に入学した年(1994年)の春に買って以来、実に6年半に渡って無故障(但し時々異音はしていた)で稼働してきたデッキだが、流石にこれだけ使うと駆動ベルトが伸び切ってしまうという事か(苦笑)。

 以前、EDβデッキ(EDV-7000 / SONY)が壊れた時は、非常に特殊な形をした部品が壊れ、しかも補修部品の保有期間が過ぎて修理不能という事で突っ返されて、結局粗大ゴミとして捨てる羽目になった(泣)のだが、これなら汎用部品っぽいし何とかなりそうだ。>希望的観測(苦笑)

 

 どうせだから修理に出すついでに、かなり摩耗している筈のヘッド周りの交換(これも補修部品の保有期限との絡みから言って、例え可能でも今回が最後のチャンスだろう)もオーダーしておくかなぁ・・・。

 

 夜になって母親からPCの操作についてあれこれ尋ねられる。

 ・・・色が正しく出ないって、おかーさん、こりゃインクが切れとりますがな(爆死)。

 一事が万事この調子だが、まぁ初心者だし仕方ないか(苦笑)。

 もっとも、その割にはインクカートリッジを交換した後の出力結果を見て、画面の色と違う色が出ているなんてどこかのデザイナーみたいな苦情を言ってくれたりもするので、侮れない面もあるのだが(笑)。

 ちなみにこの苦情の申し立て(笑)については、プリンタ(PM-750C / EPSON)のドライバにある色調補正モード設定をICMプロファイルと合わせる(つまりCRTのカラープロファイルに合わせて補正する)モードに切り変えて出力して見せたら、正しく印刷された事に驚きつつも納得してくれた(笑)。

 ・・・WYSIWYG万歳(爆笑)。

 私としては、ICMによる色補正が思った以上にちゃんと機能する(苦笑)事が判ったのが収穫ではあった。

 

西暦2000年7月31日

 今日は一日家でお篭もり(笑)。

 台風の影響で強風が吹いていたせいもあるが、特に外出の必要が無かった、というのもある。

 もっとも、夕方には買い物と愛媛のW.T.先輩に送る荷物(Apple Extended Keyboard IIその他)を出しに出掛けたりはしたのだが(苦笑)。


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