いわゆる更新記録(靖間 誠PC日記兼用)
西暦2001年1月1日−1月31日分
西暦2001年1月1日 “謹賀新年”
新世紀、あけましておめでとうございます。
今世紀も当サイトを宜しくお願い致します。
・・・ま、何時まで続けられるかは定かではないのですけど(苦笑)。
深夜、“行く年来る年”を見ていたら、薬師寺の玄奘三蔵院の壁画の完成を報じていた。
・・・ひでぇ画(爆)。
実物を見ずに論評するのはアレなんだけど、特に出来の悪い画というのはTVの映像や写真からでも判断が付く(きっちり訓練すればそれ位は誰にでも出来る事だ。少なくとも構図の善し悪しは、粒子の粗い写真でもすぐに判る)訳で、その意味でこれはもう最悪の部類に入る。
・・・こんな銭湯の壁画の出来損ないを公開するなんて、満天下に恥晒す様なものやん>薬師寺
現代の成功を収めた(とされる)画家が寺院に壁画等を寄贈するというパターンは唐招提寺の鑑真和上像を収める部屋の壁画以来なんだけど、ここまでひどい出来だと、正直唖然とする他無い。
無論、話題になって薬師寺に足を運ぶ人間が増えるのは誠に結構な事(それだけあの寺の伽藍再建事業が楽になる)なのだけど・・・(溜息)。
ホテルの食堂で朝食を摂っていたら、隣のテーブルがひどくうるさかった。
身だしなみといい、行儀の悪さといい、新年早々TPOをわきまえない連中だなぁ、とか思いながらふと彼らの顔を見てみたら、何と“行く年来る年”で見たばかりの顔があった。
そう、玄奘三蔵院の壁画を描き上げたばかりの平山郁夫画伯とそのご家族様ご一行だったのだ(爆)。
・・・なるほど、当人はともかく家族がこれじゃぁ、まともな画を描ける環境であろう筈はないな(冷笑)。
仮にも東京芸大前学長とその家族でしょうに・・・。
新年早々思いっきり嫌なものを見てしまった・・・(溜息)。
食後、両親と共に近鉄で吉野へ。
近鉄奈良駅で切符を求めた所、
近鉄奈良−(京都行特急)−大和西大寺−(橿原神宮前行特急)−橿原神宮前−(吉野行特急)−吉野
という、比較的短区間にもかかわらず2回の乗り換えを含む愉快な行程となった(苦笑)。
まぁ、近鉄の路線網の構造とその生い立ちを考えれば致し方ない乗り換えなのだけど。
この時、2001/01/01記念の入場券を売っていたので、ついでに買い求めてみる。
昨今珍しくなった硬券だが、今日ばかりは何処でも珍しくないアイテムなのだろうなぁ(笑)。
改札を通り、地下ホームに降りると、12410系4連京都行が待っていた。
12400系“サニーカー”に始まる意匠を引き継ぎつつ、30000系“ビスタカーIII世”で改良されたテールランプ部の形状改善を踏襲する特徴的な前頭部を持つ、近鉄標準軌間線区向け汎用特急車シリーズの第3世代に当たる車だ。
このシリーズには80年代初頭のロールアウト以来、何度となくお世話になってきたものの、近年久しく乗った事が無かった。
それ故、ちょっと興味津々といった調子で乗車したのだが、やはりデビュー以来の20年近い時間の経過は残酷であった(泣)。
綺麗に清掃されてはいるし、座席もふかふかして良い感じなのだけど、如何にも古い。余りにも古くさい
前世紀の80年代末から90年代初頭にかけて、つまりいわゆるバブル期に日本の電車が飛躍的な質的向上を果たした事については、恐らく殆ど全ての方の同意を頂けると思うが、それ故その前の時期に建造された電車の多くは(恐らくはエバーグリーンなハイクオリティぶり(笑)を堅持する阪急電車を唯一の例外として)、経年の割に恐ろしく見劣りする様になった。
それは、これら12410系も例外ではなく、今回の乗車はその事を改めて確認する結果となってしまった。
ただ、ハードウェアとしてのこの系列の出来が悪いのかというと全然そんな事は無く、奈良から大和西大寺までの2駅間、殆ど揺れらしい揺れを感じさせない、素晴らしい走りっぷりであった事は申し添えておこう。
大和西大寺で降車し、階段を上下して橿原神宮前行特急の発着する1番線ホームに立ってしばらく待っていると、大規模な更新工事の完了した30000系“ビスタカーIII世”改め“ビスタEX”第6編成4連による吉野連絡橿原神宮前行特急がやって来た。
先ほどの12410と並行して量産された系列であり、しかも両端の電動車は12410と殆ど共通設計なので、この場合注目すべきは更新工事による変貌ぶりが如何なるものなのか? という話になる(笑)。
で、乗車してしげしげと観察してみたところ、座席は基本フレームをそのまま転用して背もたれとモケットを交換し、伊勢志摩などの沿線案内を兼ねたイラストが特徴的だった内部の白いメラミン樹脂製化粧板をグレー系の飾り気のないものに全面的に張り替え、網棚をシンプルな形状の新型に交換し、どちらかと言えば効率重視で角張った形状だった蛍光灯カバーを丸みの多いデザインの新設計品に換え、そして号車案内表示がLEDによる電光掲示方式(最近の近鉄特急車のスタンダード仕様)になった以外は基本的に以前のままである、という事が判った。
無論、それだけ交換したら充分すぎる程新しく見える(笑)訳なのだけど、残念な事に空調の送風口等がハードウェアの制約上ほぼ原形のままで、あの古くさい操作ボタン(分散式クーラー1基につき四角形の大きな白いボタンが4つずつ並んでいて、1つ押し込んだら残りの3つが飛び出た状態になる)がグレーの天井で無闇に目立つ(検査時とかに他の系列と共通部品を使い回す関係上、色を変える訳にも行かないのだろう)から、かえってアンバランスな感じがした。
この“ビスタEX”に乗って橿原神宮前へ向かったのだが、古いだ何だと文句は言っても、やはり60年代中盤の18000系京都・橿原線専用特急車や18200系京都伊勢直通特急車を経て、大阪万博を目前に控えた1960年代末に第2世代汎用特急車である12200系“スナックカー”と京都線向け18400系“ミニ・スナックカー”で完成した近畿車輛KD-97系シュリレーン式空気バネ台車は、その登場から30年を経た今も尚、格別に素晴らしい乗り心地だ。
ついでに言えば、橿原線の線路状態も抜群に良い。
比較的低速で走っているせいもあるのだろうけれど、ロングレール化がかなりのレベルに達しているのもかなり影響している様で、電車は魔法の絨毯の様に、文字通り滑る様に走って行く。
最近毎日130km/hで疾走する223系新快速の軸梁式ボルスタレス台車の乗り心地を体感しているだけに、この辺の違いは良く判る(苦笑)。
途中、西の京(薬師寺最寄り駅)に臨時停車というイベントがあったが、近鉄でも最大級のジャンクションである西大寺から2駅目、という立地ではわざわざ特急に乗車してここを目指す乗客は少ないらしく、この列車の乗降者は共に少数だった様だが、TVで放映されたお陰もあってか、薬師寺境内は例年にない盛況ぶりだった。
やはりTV報道の力は強い。
橿原神宮前で降車し、橿原線系ホームから少し離れたところにある南大阪・吉野線系ホームへ向かう。
この駅は、大戦前の紀元二千六百年記念式典に合わせて旧大阪鉄道(II代目。現在の南大阪線)の駅と大阪電気軌道(近鉄の直系の前身)の駅を移設して誕生した統合駅なのだけど、何しろその出発点が関西鉄道の支線であり、貨物の連帯輸送の要請もあって1067mm軌間で開業した大鉄→南大阪線や吉野鉄道→吉野線と、元来生駒越えの関係で強力なモーターを装架する必要があって、輸入品に頼らざるを得なかったりした為に国際標準軌間である1435mm(新幹線もこの軌間)で開業した大軌→橿原線では、そのままでは車輛が直通できない(但し、軌間可変電車が実用段階に到達したら検討されるかも知れない)ので、今の所人間の側がホーム間を自分の足で移動する事で解決を図らざるを得ないのだ(爆)。
もちろん、乗客としては乗り換え無しで京都から吉野まで直通してくれるに越した事は無い(苦笑)のだけど、資金的な制約を考えると、その実現は相当困難な様だ。
吉野方面行ホームで待っていたら、嬉しい事に26000系“さくらライナー”第2編成4連がやって来た(喜)。
この系列は去年の正月にも乗ったが、大阪・名古屋線の21000系“アーバンライナー”に続くバブル期の近鉄オーバークオリティ特急車シリーズ第2弾(笑)だ。
華やぎのある座席の造形や色彩的な演出、シンプルながらも高級感にあふれた半間接照明の処理、それに開放的な運転台後部のパーティションの設計など、豪華特急車の傑作として印象が深い。
これは外形デザイン、特に前頭部が今ひとつ格好良くないせいであまり高く評価されていない様なのだが、乗って感動出来た、という点では、あの高島屋が内装を担当した今は無き南海20001系DXズームカー“こうや”と共に生涯忘れられない電車だ。
日立MMC系の抵抗制御器を搭載するこの系列は、大阪線向けの21000系がそうであった様に南大阪線系では最後の電動カム軸制御式抵抗制御車で、運転手の技量次第で非常に静粛な加速ぶりが得られるのだが、困った事には電車がこれだけ素晴らしいのに反して、走行する線区の線路状態があまりによろしくない。
恐らくこれが、この“さくらライナー”唯一の欠点だろう(苦笑)。
25m定尺レールを連ねた急曲線の続く吉野線に多くを求めてはいけないのだけど、もう少し何とかならないものだろうか・・・(溜息)。
特徴的なホーム上屋根のある終点吉野で下車し、昭和3年に開業したという、産業考古学的に価値のありそうな古典的ロープウェイ(笑)で吉野山へ登る。
そして、そこから20分程歩いて豊臣秀頼が修築したと伝えられる勝手神社という神社の脇から少し下がり、お目当ての大日寺なる寺院へ辿り着いた。
・・・言っちゃ悪いけど、すげーボロ寺。
建物が小さく、屋根が雨漏りするのか、本来の屋根の上からトタン屋根が被さっているし(苦笑)、何より立地が恐ろしく場末っぽい(爆)。
こりゃ期待はずれだったかな、とか思いつつ堂内に入ったのだが、その考えは堂内に並んだ仏像群を見た瞬間に霧散してしまった。
・・・こりゃ参った。
そこには、密教的宇宙観に従って五智如来と呼ばれる大日如来を中心とする五つの如来像が、一目で製作年代が藤原時代に遡る事が判る端正な造作の仏像群が、押し込まれていた。
それらは、そのあまりに狭く傷んだ堂内には不釣り合いな、平安密教美術の精髄とでも言うべき存在だった。
何より、五躰が欠ける事無く揃って今に伝わっているのが尊い。
聞けば、かつてこの地にあった古刹(吉野最古の寺院)に伝来した由緒ある仏像の由で、南北朝期の戦乱の最中に焼亡した件の寺院からかろうじで救い出されたもの、との事だった。
なるほど、道理で寺格に不釣り合いな仏像な訳だ。
何というか、大きなセントバーナード犬を小さな犬小屋に押し込んでしまっている様な感じで、正直言ってあまりに勿体ない気がしたが、それならば致し方あるまい。
再び怖いロープウェーに乗って下山し、近鉄吉野駅へ。
ホームに最新の16400系特急車が待機していたので、これに乗りたいと思って特急券の発券を求めたのだが、残念ながらこの列車は橿原神宮での京都特急連絡列車ではなく、諦めて次の特急に乗車する事と相成った。
待つ事暫し、やって来た次発の特急車は、南大阪線系最古の特急車である16000系、それも第一編成が大井川鉄道に譲渡された今では最古参のグループとなった第四編成2輛を含む4連であった(爆死)。
どうにかリクライニングシートは備わっているものの、縄紐を編んだ本物の網棚(最近滅多に見なくなった)が並ぶなど、長らく慣れ親しんだ古い近鉄特急車の気分が漂うその内装は、今となっては古色蒼然たる空気が漂っていて、往路に乗車した26000系と同じ特急料金を取られる事に多少理不尽さを感じさせされる部分がある(苦笑)。
個人的には、大阪線10400系“旧エースカー”に始まる第一世代の汎用特急車シリーズの完成形であるこの系列のエクステリアデザインは大好きなのだけど、実際に乗車するとなったらやはり新しくて快適な電車の方が有り難い(笑)。
乗車した16000系は座席の下に吊られたヒーターが過剰に効いてポカポカ暖かい状態で、吉野神宮を通過したあたりから3人ともつい眠って意識が飛んでしまう程であった(笑)。
で、気付くといつの間にか列車は壷阪山を過ぎ、橿原神宮前まで後少し、という所まで走っていた。
いや、危ない危ない。
危うく乗り過ごす所であった(笑)。
橿原神宮前の橿原線ホームで待機していたのは、先刻見送った16400系と共通設計の車体を持つ標準軌間線区用第四世代汎用特急車である22000系“Ace”であった。
デザイン面でブレイクスルーとなった21000系の後に汎用特急車として、それもバブル期が破綻をもって終わりを告げてから建造が開始されただけに、ごくごく質素な、いっそ素っ気ないと言っても良い様な内装を与えられた電車だが、流石にあの“アーバンライナー”の経験が反映されただけあって、シンプルながらも押さえるべき点はきっちり押さえた設計で、近鉄では初採用となったプラグドアがもたらす気密性が高く静粛な室内環境を含め、好感が持てる。
ついでに言えば、往路の12410系や30000系“ビスタEX”のインテリアと比較してみると、それぞれの位置関係が良く判る。
12410系の頃の設計を継承しつつ、線区や使途に特化した豪華な設計の21000系や26000系の成果を反映して22000系が誕生し、そしてその成果を再度旧型車にフィードバックして30000系の更新工事が実施されたのだけど、今日一日でそれが一通り体感出来た訳だ(笑)。
ちなみに、22000系の乗り心地は抜群で、KD-97系台車に比べ、遙かに部品点数が少ない筈のKD-301以降の型番を持つボルスタレス台車の優秀さを痛感した。
大和西大寺で奈良行き特急に乗り換え。
待っている間に5820系“シリーズ21”の快速急行や準急が何本か奈良へ向けて発車していった(苦笑)。
・・・これならわざわざ特急に乗るまでもなかった気がする(苦笑)。
その後やって来たのは30000系“ビスタEX”第一編成で、指定されたのは30151、つまり2階建て中間車の2階席だった。
以前未更新の同型車の2階席に乗車した時は、ひどく動揺の大きな電車だ、という感想があったのだけど、更新時にあれこれ鋼体をいじったのが効いたのか、ねじれ剛性が増した感じで、揺れは少なくなった様だ。
内装の更新は往路に乗車した普通床の電動車(30256)に準じた仕様だが、小さな天窓の付いた狭窓が多数並んだ姿が印象的であった中間車の2階席側窓は、建造と改造を共に担当した近畿車輛が100系新幹線電車168形食堂車の製造を通して得た経験がフィードバックされたのか、2枚分ずつ1枚にまとめられた上で天窓部まで一体化された大型の曲面ガラスに変更されており、半間接照明化された灯具の設計やカーテンレールの巧妙な取り付け方も含め、広々としたなかなか良い感じの空間を形成する事に成功している。
側窓の件は、建造時点では実現不能だった(そんな大きな複層曲面ガラスは1979年の時点ではとても量産出来なかった。それから15年後の168の2階窓でさえ、当時の国鉄設計陣は渋るガラス屋の説得に苦労した由である)いわゆる懸案事項という奴だけど、こうして更新車に乗車してみると、更新前がいかに狭苦しかったかが痛感される。
特急で奈良へ向かう途中、灯の消えたそごう奈良店が視界に入って来た。
昨年中に閉店となった同店には美術館が併設されていて、その新春特別展をこの10年程の間毎年楽しみにしていたのだが、それも今年からは無い。
広大な駐車場に一台も車の無いというのは、如何にも寒々しい光景だ。
同様に閉店された小倉店もそうだが、思い出のある場所や店の閉鎖は、理由がどうであれ、やはり寂しいものだ。
西暦2001年1月2日 “天候不順”
本日はいきなり早朝に目が覚め、早々に朝食を摂った後で両親と西大寺に出掛ける。
正月にこんなに早く起きたのは、ここ20年程の間では初めてだ(苦笑)。
近鉄奈良から5800系“L/Cカー”の急行で大和西大寺へ。
近鉄/近畿車輛ご自慢のロングシート/クロスシート切り替え機構は両親には好評だった(笑)。
まぁ、ラッシュ時でもない限りロングシートの方が好きだ、という意見は少ないと思うが(苦笑)。
下車して駅の改札を出たら、いきなり雨が降り出した。
出る前に見たTVの天気予報では降水確率20%とか言っていたのだけど、どうもその1/5の確率が当たってしまった様だ(涙)。
で、しばらく雨宿りしてから、少し小降りになったので西大寺へ。
実は、大方三十年近くに渡って正月の奈良を訪れて来た訳なのだけど、どうした事か西大寺だけはこれまで拝観した事が皆目無かった。
もしかしたら、近鉄大和西大寺駅前という至近の立地がかえって訪問を邪魔していたのかも知れない(苦笑)のだが、ともかく、近隣の秋篠寺は訪問しても何故かここだけはマトモに訪問した事が無かった。
要するに、いわゆる“縁がなかった”って奴なのだろう(苦笑)。
まずは手近の四王堂に入り、錫杖を持つのが特徴的な長谷式の十一面観音像と、四天王像を拝観。
何度も火災にあった大寺院らしく、四天王像は後補なのであまり面白くない造形の鎌倉仏だったが、その足下に踏まれた邪鬼の方は表情豊かな天平期の塑像であった。
当然、本来は四天王の方も塑像であったのだろう。
なまじ邪鬼の出来が良かっただけに、少し惜しい気がした。
まぁ、これはいかにも美術愛好家的なモノの見方であって、信仰の対象としてであればそれはあまり気にならない事なのも知れないが・・・。
四王堂に続いて、本堂を拝観。
昨年訪れた大善寺で拝観した清涼寺式釈迦如来像のコピー元に当たる釈迦如来像(重文)がここにある。
・・・流石というか何というか、コピー元だけに出来はこちらの方が良かった(笑)。
まぁ、出来について言えば、この本尊の釈迦如来像よりもその周囲に置かれた普賢菩薩像や善財童子等の明らかに慶派の香りの漂う力感や量感に満ちた鎌倉仏の方がかなり良かったのだけど(苦笑)。
全般的に見て、この寺の仏像は超一流というには何かが足りない感じがした。
もしかしたら、それが南都六大寺中でのこの寺の不人気の原因なのかも知れない。
天候が回復しなかったので、結局西大寺から秋篠寺を回らず、そのままホテルに戻る。
帰路は1000番台のVVVF通勤車による普通だった。
昼過ぎになって漸く天候が回復したので、春日大社から東大寺二月堂を経て大仏殿を参詣。
悪天候のせいか、参拝/参詣客は少ないように見受けられた。
もしかしたら新年二日目の夕方近くなせいかも知れないが(苦笑)。
西暦2001年1月3日 “帰還”
街に出て、東向の商店街の長年行きつけの和菓子店で買い物。
それから時間があったので東大寺三月堂に足を運び、堂内の諸仏を拝観。
ここには国宝中でも屈指の仏像が三躰もあるのだけど、それだけではなく、そもそも三月堂という建物自体が国宝指定を受けた名建築なのが強い。
・・・やはり仏像の格に見合った建物が必要という事か。
三月堂を辞して昼食を摂った後、姫路へ戻る。
帰宅後早速PCを起動し、メール等のチェック。
ヤノ電気のサーバが不調らしく、新年早々エラーメールが大量に舞い込んでいて迷惑する。
・・・これは前世紀の亡霊か(苦笑)。
年賀状が届いている旨母から言われて驚愕する。
ここ十年程、一枚も出していない(爆死)というのに、三枚も届いていた様だ(驚)。
・・・幾ら何でもこれらについては賀状出さねばならないなぁ・・・。
さてどうしようか。
西暦2001年1月4日 “あれ以外の何か(笑)”
巷の一部その筋で話題沸騰中の偽春菜にハマる。
相当ハマる(爆)。
・・・かなりヤバい感じでハマる(汗)。
そんな訳で1型56号及び2型14号、いきなり竣工(笑)。
主な改変は前世紀に用意していたコンテンツ(AHA-2940AU)の追加と、各型トップページの偽春菜対応(笑)など。
これについては飽きるまでは対応の予定(笑)。
西暦2001年1月5日 “マティス展”
両親と共に兵庫県立近代美術館で開催中のマティス展を観覧。
姫路−(JR西日本東海道・山陽線新快速)−三宮−(阪急神戸線普通)−王子公園
というルートを採った為、本当に久々に阪急神戸線に乗車する事になった。
・・・最後に乗ったのは、確か93年の夏だった様な(苦笑)。
で、肝心の展覧会なのだけど、入場料は超一流なのに中身はリトグラフでお茶を濁したひどいものだった。
少なくとも私には、数だけ揃えても傑作がなければ意味が無い、という事を開催者側が理解しているのかどうか疑わしく感じられた。
本当に良かったのが、油絵2点こっきりというのは幾ら何でもひどい。
まぁ、バブル崩壊からこちら、展覧会の予算的制約が厳しくなったのは判るのだけど、質を落としておいて、そのくせ値段はバブル期のままというのはいかにも観客をなめた話だ。
神戸の某書店で、今更の様に夏見正隆の“僕はイーグル 1”を購入。
“なるたる”の鬼頭莫宏がイラストを担当した作品で、発売時に気になってはいたのだけど、何となく買い逃していたものだ。
夏見正隆は仮想戦記のふりをした怪獣小説の怪作(笑)、“レヴァイアサン戦記”(徳間文庫)でデビューした人で、結構癖のある話を書く傾向が強いのだけど、やはりというか何というか、この作品もその例に漏れなかった(苦笑)。
とりあえず次巻の早期刊行を望む(笑)。
西暦2001年1月6日 “冬の到来”
新年最初の通学。
帰宅途中、新大阪駅のホームで新快速を待っていて、線路上に落ちた大きな雪塊を目にする。
北陸線系の“雷鳥”や“白鳥”か、それとも福知山・山陰線系の“北近畿“や”文殊”あたりが落としていったのだろう。
そろそろ冬が厳しくなる。
IRCで雑談していて、薙沢君から“Champon”なるSCSI(Ultra SCSI)+LAN(100Base-TX)+USB複合PC-9821/PC/AT互換機兼用PCIカードの存在を教えられる。
・・・この組み合わせなら要らないなぁ(苦笑)。
無論、PCIスロットの少ない98でのこのカードの有用性は理解出来る(但し、良くある様に互換性に問題がある、とか機種によって動作制限がある、とかなら駄目だ)ものの、SCSIがUltra SCSIじゃ潰しが利かない。
この構成のPowerMac用カードがあったら速攻で“買い”なのだが(苦笑)。
個人的にはUltra 2 Wide SCSI(Ultra Wideでも可)+USBや、あるいはUSB+PCIサウンド(出来ればYMF-754でSPDIF I/O付き)のカードが欲しいけど、そうなるとPC-9821の場合、使えない/使いにくい/入れても全然性能が発揮出来ない機種が多いしなぁ・・・(溜息)。
西暦2001年1月7日 “降雪”
昼過ぎ、大阪や姫路では恐らく今世紀最初の降雪。
故に帰路のJRのダイヤが多少乱れた。
やはり、223系1000/2000/3000番台による新快速の最高130km/hでの運転を中核に据える現行ダイヤは、回復運転の余裕が皆無に近いという事か。
夜、Niftyのハードウェアフォーラムで公開されている“Champon”(この製品はNiftyのフォーラムのオリジナル企画品)の写真画像データを眺めてみる。
“IFC-USUP-TX”って型番があるという事は、形式上はともかく実体は、名古屋に本拠を置くあの大手周辺機器メーカーの製品という事だな(苦笑)。
実際、搭載各チップを見ても、AdvanSysのSCSIコントローラ、CMDのUSBコントローラ、それにSiSのLANコントローラ、といった具合に件の某社がその製品で常用しているチップが主体で、せいぜいPCI to PCIバスブリッジチップであるIntel 21152が目を引く程度だから、開発自体はそれ程難しくなかった様に見える。
無論、初代Xtとかの様なPCI 2.0の頃のマシンで21152がマトモに動く様にするにはそれなりにノウハウが必要な筈だから、それ程簡単に出来る製品とは思わないけど、それでも21152の問題さえクリアすれば後は基本的に単体の各カードをひとまとめにする作業だけで済むから、この手のボードで一番問題になるPC-98対応SCSI BIOSを持ち、しかも該当する残り2種のカードを自社製品ラインナップに持つM社(笑)が、経緯はともかく、開発生産を引き受けたのも当然だろう。
何よりこういう販売方法であれば自社で販売するのと違って、リスクは大概ユーザー側が負担してくれる訳で、製品化に関わるコスト中で一番厄介なサポートの費用が殆ど要らない訳だし(苦笑)。
それにしても良く出したものだと思うけど、サイト上の関連各ページを読んでいたら、やはり相性問題が、それもよりにもよってこの手の複合カードを熱望しているユーザーが多い筈のXa7〜16(C/K/Rモデル)やXt13で発生しているとの記事があった。
・・・やはりチップセットのSuperCore594“WildCat”がネックか(苦笑)。
BIOSの修正で解決すれば良いけど、肝心のSCSIが使えないというのは何がなんでも大問題だよなぁ・・・(溜息)。
西暦2001年1月8日 “Avalon”
“人狼”DVDに収録されていた、押井守の最新作“Avalon”の予告編を見る。
・・・実は収録されている事に今日まで気付かなかった(苦笑)。
ゲーム感覚、という部分には多少疑念は残るものの、スチルでは到底読み取れなかった、凄まじい革新を含んだその映像に圧倒される。
ポーランド語+日本語字幕という構成が物凄くかっちょイイし、何よりあの“Ghost in the Shell 攻殻機動隊”の延長線上に位置する、スタイリッシュかつ快感中枢を刺激するシャープな演出がイカす。
ついでに言えば音楽がオーケストラによる川井節炸裂なのでもう最高(爆死)。
この作品によって映画の新世紀は開幕する、そんな確信めいた気分を抱かさせられる予告編であった。
西暦2001年1月9日 “Imagine128 Series IIe”
某中古屋で#9のImagine128 Series IIeをゲット。
これは現物を初めて見たのだけど、これ以前のImagine128系チップ搭載カードにあったCL-GD542x VGA専用チップ(笑)が省略されている事に気付いて驚く。
・・・アカン、Imagine128とImagine128 Series IIのページ、書き直しや(爆死)。
ちなみにこのカードには、#9日本支社が付けた日本語版リファレンスガイドが添付されていて、結構知らない事が書いてあった。
・・・そうか、DEC Alpha搭載マシンでも動くのか(驚)。
いやはや、大変勉強になった。
西暦2001年1月10日 “更新”
1型57号及び2型15号、竣工。
主な更新点は、Imagine128 Series IIeの追加と、これに伴うImagine128、Imagine128 Series IIの手直しなど。
西暦2001年1月11日 “NeXT Book 2001”
Appleが発表した新型G4 Macと、漸く出たPower Bookの新モデル“Power Book G4”の記事を見る。
G4 Macの方は細々とした修正と高クロック版G4の搭載、それから世界初のDVD-Rの標準搭載が主な変更点(GeForce2 MXの搭載? そんなモノは本質的な話じゃない)だが、Power Bookの方は、史上初めて私に“物凄く欲しい”と思わせる、非常にシャープで素晴らしくかっちょエエデザインになった。
これは、何でも筐体外装にチタン合金成形品(チタンを樹脂に混入した物ならばIBMがThinkPadで先行して採用していたが、合金一体成形では世界初だろう)を採用したのがウリで、そのお陰で(加工上の制約から)あのいやらしい曲面を描くジョナサン・アイブお得意のデザインが不可能になってしまったのが原因なのだそうだ(苦笑)。
・・・となると、加工技術が進歩すればするほど、酷いデザインになる(爆死)って事にならないか?
それはともかく、このPower Book G4に例のMac OS Xを入れればNeXT Book 2001年版の出来上がりという訳だ(笑)。
外装にチタンを選んだ事も、その辺から考えると、何やら曰くありげだ(苦笑)。
西暦2001年1月12日 “Revolution IV-FP for Mac”
昼休みに、某ショップのノーチェック返品不可品コーナーで#9のRevolution IV-FP for Macを発見、速攻でゲット。
ちなみにお値段は驚愕の\1000(爆)。
Mac用なので当然VGA-BIOSを搭載されておらず、しかも基板には一切機種名とかは書かれていないので、一体何の為のグラフィックカードか判らず、それ故ノーチェック返品不可の扱いになったらしい。
実際、私とて先日岡山で薙沢君に同じ物を見せて貰っていなければ、瞬時に判別する事は出来なかったものと思う。
まぁ、液晶ディスプレイ用デジタルインターフェイスとTicket to Ride IVチップを共に搭載したPCIバス対応カードはこの地上に2種類しか存在しない筈なので、多少の時間があれば見ていなくても気付いたものとは思うが・・・(苦笑)。
何にせよ、以前から欲しかったカードなので、破格のバーゲンプライスで入手が叶った事は誠に喜ばしい。
帰宅後、件のカードをマシンに取り付けて早速動作チェック。
但し、本来の対応機種であるPower Macintosh 8500/132にではなく、AT2号機の64Bit 66MHz対応PCIスロットに、だ(笑)。
今更言うまでもないと思うが、初代Imagine 128に始まりTicket to Ride IVに終わる一連の#9オリジナル設計による128bitアーキテクチャグラフィックアクセラレータチップを搭載するPCIバス対応カードは、偉大なる同志マイクロソフト様が恐れ多くもマトモに動作するドライバを直々に書き下ろして下さったお陰で、対応マシンに関わらずWindows 2000ではセカンダリグラフィックカードとして正しく動作する。
中でもとりわけRevolution IVは、そのシリーズ最後の、そうして最強のチップであり、しかもAGP/PCI共用という事で32bit 66MHz PCIバスにも対応しているので、こういう使い方をしてもきちんと動作する事が期待出来るのだ。
ついでに言えば、一般的なPCIバス対応カードにおいては、Mac対応のファームウェアがROMに書かれていた場合、PC/AT互換機に挿して起動する際にはそのROMの内容は自動的に無視される様になっているので、“Mac専用のカードを挿す”イコール“BIOS ROMを無効にしたカードを挿す”という事になる。
で、肝心の動作だが、挿して電源を入れ、Windows 2000を起動したらその時点で既にRevolution IVのドライバがインストールされており、マルチディスプレイ環境で利用可能な様になっていた。
・・・PnP万歳(爆)。
ISAやCバスの時代にははっきり言ってあるだけ迷惑な代物でしかなかったPnPだが、このマシンの様にほぼレガシーフリー、しかもPCIデバイスもことごとくPCI Rev.2.2準拠とかいう事になると、かなり幸せになれる(苦笑)。
只、問題なのは、その“かなり幸せ”を実現するには上記の条件を満たしてやる事がほぼ必須条件で、しかもMicrosoft社が提供する標準ドライバの持つ機能で満足する慎ましやかさが要求される事だ。
さて、肝心のRevolution IV-FPの性能だが、かなり高速な2D描画性能を備えており、しかも画質も相当良い部類に入るものと思われた。
何というか、\1,000でこれだけ出来たらもう充分以上、って感じで(爆死)。
いやはや全くもって良い買い物であった。
西暦2001年1月13日 “揚足鳥は飛んでゆく”
このサイトのコンテンツに存在するミスを指摘するメールが届く。
曰く、Imagine 128/128S2の記事に誤りがある、と。
・・・確かにその通り(大汗)。
チェックが甘かったと言う他無い。
お詫びし、早速訂正させて頂きます(謝)。
そんな訳で指摘して下さった薙沢“揚足鳥”幸茂君には感謝を。
ミスは無いに越した事は無いけど、こうして私が気付かないでいるそれを見つけて、しかも通報してくれる人は本当に有り難い。
そんな訳で早速件のコンテンツの訂正を行った。
まぁ、気付かない人が大半(というか、アレをちゃんと読んでくれている人ってどの位いるだろう?)なんだとは思うけど(苦笑)。
西暦2001年1月14日 “Imagine/4”
先日買ってAT2号に挿していたRevolution IV-FP for Macを、その本来の対応機種であるPower Macintosh 8500/132に挿してみる。
・・・カードとしては全く問題なく動作している(ユーティリティインストール前の起動時から正しく画面が表示されるし、コントロールパネルでもオンボードと合わせて2画面分表示されている)のだが、肝心のHawkEyeユーティリティ(但し、実体はOEM先のformac社製ProGraphicsユーティリティの同等品)が全く動かない。
で、悩んだ末にドキュメントを読んだら、これはMac OS 8.x以降対応であると書いてあった(爆死)。
・・・Mac OS 7.6.1や漢字Talk 7.5.5で動く訳はないわな(苦笑)。
9.0.4が9.1になった事だし、いい加減Mac OSの新しいのを導入すべきだな(笑)。
ちなみに、このHawkEye関係のチェックをしていて、これによって機能拡張に投げ込まれる機能拡張ライブラリを眺めていたら、面白い事が判った。
OEM開発生産担当のformac社のProGraphicsでは“Proformance 2B”、そしてチップ生産元でしかもカード販売を行う#9のHawkEyeでは“Imagine/4”という非常に興味深いカード名表記が行われていたのだ。
殊に#9が与えた“Imagine/4”の名は、Ticket to Ride IVチップのあり方を考えると何とも意味深で、色々勘ぐりたくなってしまう(笑)。
・・・これ、Revolution IVちゃうんか(汗)。
そんな訳で、書きかけていたRevolution IV-FP for Macの記事を色々手直しする。
これを完成する為にも、やはりMac OSの最新版は買わねばなるまい。
・・・何やら目的と手段が逆転している様な気もしないでもないが(苦笑)。
西暦2001年1月15日 “森ブタ”
某中古屋でPC-9821RvII26を見る。
ちなみにお値段は約7万円也。
近い未来にならば決して出せない金額ではないのだが、いざ予算が出せる様になった時に果たしてブツが残っているかどうか。
それに、仮に買ったとしたら既存のPC-9821Xv13/W16が追い出される(場所がない)訳だけど、そうなっても多分今更買い手は付かないだろうし・・・。
・・・何しろ色々要らない改造やら何やらをしているものなぁ(苦笑)。
曾根崎の旭屋本店で、名取紀之(RailMagazine編集長)氏の労作、“森製作所の機関車”を購入。
森製作所というのは今の新大阪駅のあたりに工場を構えていたディーゼル機関車メーカーで、戦後彗星のように現れて、不要になった蒸気機関車の足回りを流用した不細工な、けれども安価なディーゼル機関車(注1)を各地のローカル私鉄に供給した事で歴史に残る、伝説の会社(注2)だ。
今回この本を読んでみると、実はこの会社は戦前〜戦時中は西日本有数の産業用ディーゼル機関車メーカーとして伊藤忠商事と組んで海軍向けなどに大きな生産実績を残した日本牽引車製造の後身(注3)で、おまけに戦時中にはPzi先輩が勤めている高田機工(注4)に吸収合併されていたのが戦後独立を果たした、などという驚愕の歴史を辿っていた事が書かれていた。
この会社の私鉄向けディーゼル機関車は西日本のローカル私鉄向けが大半であり、しかもその内1輛(加悦鉄道DB201)が動態保存されていて現存するので、愛好者間での知名度自体は零細と言う他無いその生産実績に反して非常に高い(注5)のだが、それに反してその製造会社自体はこれまで皆目と言って良い位知られていなかった。
理由やその経緯については本書に非常に詳しく記載されているのでここではこれ以上書かないが、とにかく最晩年の森貫一氏(森製作所の創業者)から生々しい証言を引き出す事で、これまでの鉄道史の暗闇に光をもたらす事に成功した本書の価値は計り知れないものがある。
これは、ディーゼル機関車の発達史に興味のある人間には必読の一冊である。
そう断言しておこう。
注1:その不細工な面構えから、いつしか“森ブタ”の愛称が付いた
注2:何故歴史に残ったかと言えば、ここのアイディアをいただいて、手持ちの古い蒸気機関車の改造でディーゼル機関車を製造する私鉄やメーカーがあちこちに現れた(“蒙古の戦車”とファンからあだ名された奇怪な格好の機関車を大量に、それも自社の2工場で揃えてしまった静岡鉄道駿遠線がその代表だ)からで、何故伝説となったかと言えば、昭和30年代以降、この本の元になった連載がRM誌で開始される直前まで、その消息がふっつり途絶えてしまっていたからだ
注3:しかも前身でもある。だが、冷静に考えてみるとこの日本牽引車製造自体からして、今やその知名度は非常に低い(苦笑)。というか、軍用機関車の研究家や入替用機関車の研究家以外には全然知られていないと言った方が正しかろう
注4:大阪にある橋梁や水門のメーカーだが、その頃は産業用内燃機関車や軍の上陸用舟艇なども生産していた。なお、Pzi先輩によれば、この時代の事は今や同社社内でも知る者は非常に少ない由である
注5:何しろ、その加悦鉄道DB201(“森ブタ”の完成形の一つだ)が珊瑚模型店から鉄道模型として実車以上に大量に生産販売された(爆笑)関係で、この無骨ながらも愛らしい、“森ブタ”の特徴的な姿は日本の鉄道模型ファン(特にHOゲージャー)には割と良く知られている
注6:本当は脚注は使いたくなかったのだが、括弧で括る分量があまりに多くなったのでこうなった。鬱陶しいが致し方ない。許されよ。もしかしたら今後もこういう事はあるかも知れないが・・・
西暦2001年1月16日 “5.25インチ”
“侵略者の平和3 融合”を読む。
・・・何かしらんが恐ろしく後味が悪い。
続くにしろ、終わるにしろ、もう少し何とかならなかったものなのだろうか?
いや、人生爽やかな物語だけで出来ているなんて毛頭思っちゃいないのだけどね(苦笑)。
中古(というかジャンク)でTEAC製5.25インチ2HDドライブ(FD-55GFR)を1台購入。
素晴らしい事には未だに供給が続く現行製品なのだが、何しろ非常に長い間販売され続けているので、こうした中古で見る機会も結構ある。
聞いた話では、80年代にTEACはこれらのFDD製造販売(世界中が対象だ)で大もうけして、その上がりであの伝説的CDターンテーブルメカニズムであるVRDS(注7)の開発に着手した程だったのだそうなのだけど、そのトップメーカーとしての責任感こそが、今尚このFD-55GFRの販売を継続させている原因なのではないかと思う。
実際、今となっては5.25インチFDDを製造しているメーカーなどTEAC以外には存在しない(注8)から、やはりこれは一種の社会還元なのだろう。
無論、5.25インチディスクの遺産を抱える私の様な人間にとっては、エミュレータへ資産の持ち越しを可能とするこういったドライブの新品の存在が非常に心強い(注9)のは確かなのだけど、企業経営の観点ではやはり儲からないのだろうなぁ(苦笑)。
注7:倒置したターンテーブル(強固な門型ブリッジから吊り下げられている)にディスク上面を圧着させてからディスクを回転する事で高精度なピット読み取りを実現する、TEAC驚異のメカニズム。理論的には最強で、現行最上位のEsoteric P-0sを上回る読み取り性能のトランスポートは他に存在しないとさえ言われる。主な搭載機種はEsoteric P-1/2/0,TEAC VRDS-??シリーズ、それからOEM供給先であるWadiaの各種CDトランスポートなど
注8:もしかしたら世界の何処かにもう1社位はそういうメーカーがあるかも知れないけど、メディアである5.25インチ2D/2DD/2HDディスクの国内生産が既に打ち切られてしまっている事を考えると、その可能性は非常に低いだろう。何しろPC/ATの世界で5.25インチから3.5インチへの移行が始まったのがPS/2登場の時で、Macの場合はそもそも最初から3.5インチであった事を考えると、5.25インチを最後まで大量消費していたのは多分我が国のPC-88やPC-98、あるいはシャープのXシリーズのユーザーではないかと思われる
注9:言うまでも無い事だが、5.25インチFDDも3.5インチFDD同様に摩耗部品の固まりなので、いつかは故障して使えなくなる消耗品である。従って、ドライブの供給が絶える事は即ち、そのディスクシステム全体が遠からぬ未来に緩慢なる死を迎える事を意味するから、新品ドライブが市場に流れなくなる事にはやはり危機感がある。殊に、特殊なオートイジェクトFDDを採用していたX680x0のユーザーはそういった事態を一度経験しているから、どうしても神経質になりがちである
西暦2001年1月17日 “トラス組み立て”
山陽本線加古川橋梁の架け替え工事だが、ここに来て大分形になり始めた。
かなり大型のトラス橋である事は橋脚が建った段階で予測出来た事だが、この寒い中、吹きっ晒しの川の上でトラス組み立て(部品のボルト接合など)に従事する人々の辛さというのは想像を絶するものがあるのでは無かろうか。
小野不由美の「図南の翼」、それから「Macintosh改造道 増補版2001」を購入。
前者は以前講談社文庫WHで出ていたのが、改訂の上講談社文庫本体で再発されたものだが、改めて読み直してみると、元が本当に良く出来ていた事を痛感する。
後者はMACPOWER誌の連載記事を編集した労作だが、何しろ、アンチWintelな人が書いているので、PC/ATに関わる記述の踏み込みがエラく甘い(苦笑)。
今更Pentium IIの欠点をあげつらわれてもなぁ・・・(苦笑)。
昨日買ったFD-55GFRをAT3号機に取り付け。
2号ではBIOSのバグなのか、Aドライブの設定でなければ正常動作してくれない(もしかするとジャンパ設定とかで対処できるのかも知れないが)ので、やむなくこうした。
PIIIDMEのBIOSにはUSBキーボード/マウス絡みで派手な問題を抱えているのだが、こうしてみると、このBIOSにはレガシーデバイス全般に問題があるのかも知れない。
まぁ、実績もノウハウもない、Intel840用(レガシーフリーを強く意識した最初のグループに属するチップセットだ)という事情は考慮すべきかも知れないが。
西暦2001年1月18日 “MacOS 9.1”
MacOS 9.1を購入。
取りあえず最新版で、あれこれ細かい部分で改良が加えられているらしいのだが、何しろ比較対象が古い漢字Talk7.5.5とかなので、それらの小改良が一体如何なるものかは皆目分からない(苦笑)。
この関係で、Xv13のCheetah(ST-34501W)を外してMacに回し、これに換えてFireball ST2.1を2台とも98に回した。
今のMacにはCheetahは明らかに破格なのだが、今後を考慮するとこれ位の贅沢も許されよう。
只、今の所手元にはUltra Wide SCSI以上に対応したMac用SCSIカードが無いので、オンボードの低速SCSIに繋がざるをえず、この為Cheetahはその性能を全く発揮できないでいる。
これについては近い内に解決策を講じるとしよう。
かくしてMacOSが8.5以上となったので、ようやくRevolution IV-FP for Macのユーティリティを利用する事が出来る様になった(涙)。
当然、これは速攻でインストールした訳だが、ここで衝撃の事実が判明した。
D-SUB 15pin−D-SUB 15pin接続なのにD-SUB 15pin−5BNC接続のSPECTRA 5400PEよりも画質が良い気がするぞ>Revolution IV-FP for Mac
そんな訳でこのカードはAT2号のセカンダリグラフィックカード扱いは止めて、Macに挿しっぱなしにする事が決定した(苦笑)。
昨日までの構想とはまるで違う結論だが、世の中なんてのは、まぁ、そんなモノだ(笑)。
西暦2001年1月19日 “98環境の再構築”
昨日行ったHDの入れ替えの関係で、98のシステム環境の再構築を実施。
基本的にDDRS-39130Wの構成はデータ/DOSゲーム用パーティション(ここにWindows NTを入れる)を除いて原則的に変更せず、小容量のFireball ST2台には、小さなパーティション(255MB)をディスクの先頭から4つずつ切ってファイルサイズの極端に小さなDOSゲームやFM音源データの類を入れ、その後の空き容量はそれぞれ1GB程度のNTFSフォーマットパーティションを切って、はみ出したデータで埋める事とした。
・・・こうして書くと、それ程難しくない様に見えるのだが、何しろファイル転送に終始する作業なので、低速ドライブだと恐ろしく時間がかかる(苦笑)。
おまけに、今回はWindows NTのインストールで何故か理不尽な位手間取ったりした(涙)。
なお、時間が余りにかかるので、結局作業は一日では完了しなかった。
そんな訳で、明日もこれをしなければならないのかと考えると、恐ろしく気が滅入る(溜息)。
西暦2001年1月20日 “緊急起動用”
昨日に引き続き、98のシステム再構築作業の続きを行う。
小一時間作業を行って取りあえず何とか格好が付いたので、今日の所はここで一旦作業を中断し、今度はMacのシステム調整を行う。
こちらでもドライブに保存されているファイルの待避の必要が生じたので、やむなくPM8500/132標準搭載品の古いFireballを引っ張り出してきてマシンに久方ぶりに組み込み、これを利用してドライブ内のデータ等の整理再編と、ディスクフォーマットのHFS→HFS+への変更を実施した。
この為、HFS+に対応しない漢字Talk7.5.5やMacOS 7.6.1は利用出来なくなったが、今更これらでなければならない理由は何処にもなかったので、この際一気に切り替える事にした。
事後、用済みとなったFireballを外す事も検討したが、念の為に緊急時の起動用として残しておく事に決めた。
・・・やはり保険の意味でサブのシステム入りHDDは必要だ。
西暦2001年1月21日 “トコロテン式”
山本弘の“時の果てのフェブラリー”と田中芳樹+荻野目悠樹の“野望円舞曲2”を購入。
“時の果てのフェブラリー”は以前角川スニーカー文庫で刊行された名作のリニューアル版で、色々アップデートされていた(笑)。
只、個人的にはイラストは前のバージョンの方が良かった気がする。
“野望円舞曲”の方は例によって例の如しだが、段々つまらなくなってきた(笑)。
もしかすると俺、このパターンに飽きたかも知れない、って感じで(苦笑)。
必要に迫られて7デバイス接続可(つまりコネクタ数は8)の50pinフラットSCSIケーブルを購入。
AT2号機の内部配線整理用だが、当然これの投入によって押し出される5コネクタケーブルをXv13に転用し、そちらの方の内部配線整理を行うのも目的としている。
これで、AT2号機もXv13も、内部がかなりすっきりした。
やはり何段も変換アダプタやら短いケーブルやらを介するのは気分的にも電気的にも宜しくない。
西暦2001年1月22日 “Bottle Neck”
Power Macintosh 8500/132内蔵のFast SCSI接続で使うCheetah4LPのあまりの遅さに呆れて、中古のREX-PCI32を1枚購入。
InitioのINI-9100UW系のUltra Wide SCSI対応SCSIカードの一つで、本来はPC/AT互換機とPC-9821に対応した両用BIOSが書き込まれているのだが、チップメーカーであるInitio社のサイトで提供されているユーティリティを用いると、Mac用ファームウェアを書き込めてしまう事を知っていたので買ってみた。
つまり、ハナからAT互換機や98で使う事を考えていなかったのだが、いざ買ってマニュアルを読んでみると、この系列のカードを98で使う際に問題となるMO関係の挙動不安定対策として、あれこれユーティリティやASPIドライバが用意されている事が書かれていた。
・・・そうか、流石に98対応を公式に謳うだけあって、こういう部分もちゃんと造り込んであるのか(感嘆)。
伊達に高い銭を払わせていた訳じゃなかったのね(苦笑)>Ratoc
この辺はMac用ファームウェアを書いてしまったら無用になる部分なのだけど、読んでみるとこのコントローラのドライバのバグをどういう風に回避しているのかが判ってなかなか興味深いものがある。
帰宅後、早速カードの取り付けとケーブルの繋ぎ換え。
色々考えたが、結局ST34501Wだけをこのカードにつないで、元から入っていたCD-ROMドライブ(CR-8005A)とハードディスク(Fireball)は元のままとした。
で、あれこれ作業を行ってから、Cheetah4LPのパーティションでMacOSを起動。
・・・格段に高速化された(喜)。
何というか、シャア専用って感じだ(爆笑)。
やはりHDがボトルネックになっていたのだろうが、改変後、それでも遅い部分があるという事は、MPUやメモリなどにも何らかのボトルネックがあるという事なのだろう。
そっちもどうにかしたいところだけど、金がかかるからなぁ・・・(溜息)。
西暦2001年1月23日 “マスキング効果”
風邪をひいた。
最近アレルギー鼻炎治療用に多少きつい薬を服用していたのだが、どうもこれのせいで感覚がかなり鈍らされていたらしく、極度に寒い日だった事もあって、発病に気付くのがかなり遅れてしまった。
お陰でふらふらな筈なのだが、どうした訳かそんなにひどいという感覚がない。
いやはや薬がこれ程恐ろしいものとは思わなかった。
西暦2001年1月24日 “Break Down”
昨日の風邪で、朝から夜まで寝込む。
それだけでなく、早朝より下痢に悩まされ、腹の中がスッカラカンになってしまった。
で、昼になってどうにか起き出して病院へ行き、点滴やら何やらをしてもらってある程度回復したが、要するに過労か何かが原因であろうとの事で、結局一日中寝込むより他無かった。
西暦2001年1月25日 “”
薬で熱や下痢をどうにか抑えて通学。
無理が利かないので特に神経質になりながら出掛けたが、幸運にも異常は発生しなかった。
無論、油断は決して出来ないのだが。
西暦2001年1月26日 “”
西暦2001年1月27日 “”
西暦2001年1月28日 “”
西暦2001年1月29日 “”
西暦2001年1月30日 “”
西暦2001年1月31日 “”
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