注解


1:今では88と言えばローランドのSC-88系音源を総称する際に用いられる様だが、この頃は88と言えばそれはPC-88シリーズ以外の何物でもなかった。


2:PC-8001/8801系はNECの部品部門が社内ベンチャー的に開発し、子会社である新日本電気(後のNEC ホームエレクトロニクス)が製造販売を担当していたが、PC-9800シリーズはNECでもコンピュータ事業の本流であるとされた情報処理部門が別個に開発し、製造・流通系統も異なっていた。

 本来の88開発担当スタッフ(後に子会社のNECホームエレクトロニクス(旧称:新日本電気)に移籍)の手になる上位機種は、国産初のGUIマシンであったPC-100であったが、NEC社内での営業政策上の事情からこれは打ち切られ、相当な可能性を秘めたままに終わってしまった。

 その後のIntel系x86アーキテクチャによるPCデザインに多大な示唆を与え得る、非常に綺麗なハードウェアデザインであっただけに、その打ち切りは非常に惜しまれる。

 特に、専用ASICの搭載によって所謂IRQ問題が発生しにくい機構となっていた事は、その先見性についてもっと高く評価されて然るべきであろう。

 これ迄の所、特に言及した資料は見つかっていないが、このマシンが示した方向性は、その後現れるX68000のコンセプトに大きな影響を与えたのではないだろうか?

 少なくとも、完全新規設計で非常に綺麗なアーキテクチャのマシンに全く新しい構想のGUI環境を提供し、アプリケーションもそれに見合ったものをバンドルする、というPC-100が提示した方法論が、知ってか知らずか、X68000初代機誕生時に踏襲された事は紛れもない事実である。

 尚、周辺機器の型番がPC-10000-??というナンバーを割り振られていた事から考えて、本来PC-100はPC-10000と命名されるべきマシンであって、PC-9801とのラインナップ整合の都合で改名された事が伺われる。


2-1:クロック周波数10MHzのNEC製V30をCPUとして搭載し、5.25インチ2DD/2HD双方のフォーマットのメディアが標準で共に読み書き可能となった最初のPC-9801(但し、9800シリーズ全体ではハイレゾ専用のPC-98XAが先行搭載していた)。

 メインメモリは標準で384KBで、CPUが8086ソケット互換のV30という事でバンク切り替え方式によるEMSメモリボードでも挿さない限りは最大で640KB。

 FDDやHDDの搭載の有無でVM0/2/4の3モデルが存在していたが、当時の売れ筋はFDD2基搭載のVM2であった。

 また、姉妹機種としてFDDが2DD専用かつCPUがV30 8MHzのPC-9801VF2が存在する他、このVM系はVXと併売されたVM21を経てRAの世代になってからも筐体デザインを変えてPC-9801VM11として結構長く存続しており、確かに寿命の長い機種ではあった。

 ちなみに、これ以前の98では2HD専用のMと2DD(2Dを含む)専用のFという2つの系統に分かれており、ユーザーには非常に迷惑千万なラインナップ構成であった。

 側聞するところによれば、PC-9801MはFM-16βが2HD対応で登場するのを知ってPC-9801Fベースで慌てて出した為、2DDとの切り替え機構まで実装する余裕がなかったらしい。

 FMシリーズの2HD対応はFM-11BSで既になされていたのだから、そちらの登場の時点で慌てて開発を始めておいても良かった様にも思うが、どうも富士通が98キラーとなりうるx86アーキテクチャの16bitマシンを出すと考えていなかったのが根本原因の様だ。


3:この2つのCPUは同一バスライン上に存在しており、今のIntel系デュアルプロセッサマシンで言う、APICの様な複数CPUの割り込み動作を調停するハードウェアが組み込まれていなかったので、当然にディップスイッチによる切り換え/排他動作仕様となっていた。

 ちなみに、NEC自身はVMシリーズをもってPC-9801シリーズは完成したと発表したが、アーキテクチャが本当に確定したのはEGCが実装され、Cバスの仕様やオーバー1MBのメモリ配置が確定したこのVXで、PC-9801シリーズ対応を謳ったソフトでも「要VX以降」とされた製品が多かった事がそれを裏付けている。

 実際、VX以降のPC-9801は、Windows時代を迎えて大幅に変更が加わり始めたPC-9801BXまで、CPU性能と搭載ドライブ以外殆ど変更がないままに推移しており、この間に出荷された各モデル間でのソフトウェア互換性は当然に高かった。


4:標準的な構成では、88が大凡20万円台なのに、98は40万円以上していた。


5:当時の88の主力モデルであったPC-8801FH/MHだと、モノラル出力で4オペレータFM3音+PSG3音+ノイズ1音という仕様のOPN(YM2203)が搭載されており、翌87年にはステレオ出力対応で4オペレータFM6音+PSG3音+ノイズ1音+ADPCMリズム6音のOPNA(YM2608)というYAMAHA製FM音源に標準搭載音源が切り替わっているのに対し、同時期の98の主力機であるPC-9801VX21では音源はオプション(PC-9801-26K)で、標準ではビープ音しか使えなかった。

 そのせいか一部のソフトハウスは自社ゲームのPC-9800シリーズへの移植時にサウンドを省略するなどしており、基本性能で劣る88の方がゲームでは有利、というおかしな状態になっていた。

 98の場合、PC-9801DAを筆頭とするD?シリーズで漸く主力のデスクトップモデルにもFM音源が搭載される様になったが、それもやはりOPNと呼ばれる旧世代の音源チップによるモノラルFM音源(PC-9801-26K相当)であり、決してゲームユーザーを満足させるレベルの物ではなかった。

 今にして思えば、それは一種の88延命策で、NEC社内の販売チャネル間の争いを未然に防ぐ意図も含まれていたのでは無かろうか?


6:無論、「マルチメディア」という言葉そのものの世間への浸透に果たした富士通FM TOWNS(特に初代)の役割は否定出来ないが、あのマシンが当初言われていたような意味での「マルチメディア」の普及に役立ったかどうかには多少疑問が残る。

 「マルチメディア」がそれなりに市民権を得たのは、やはり1990年代初頭以降のApple MacintoshにおけるCD-ROMドライブ実装率上昇に伴う、Quick Time技術を利用した製品(その多くがいわゆるアダルト物であった)の爆発的な普及以降と考えるのが妥当であろう。

 実際、件のPC-98GSのハードウェアはビデオキャプチャの実装をはじめQuick Time的なコンテンツのオーサリングに重点を置いた設計であり、バンドルされたソフトウェアもそれを裏付ける様にWindows 3.0上でのオーサリングツールが満載であった。


7:但しPC-9801-73ボードそのものは、余りに高価(定価9万円)であった為に普及しなかった。

 プログラミングの困難さ故か当時殆ど利用されなかったNEC自社製DSPの実装と、ADPCMで必要となるワークエリア用RAMの実装がコストを跳ね上げてしまっていた様だ。

 その為、98で本格的にステレオFM音源が普及するのは、PC-9801-73ボードから前述のパーツ群及び関連周辺回路を省略して低価格化を実現した、PC-9801-86ボード(及び同等音源を標準搭載したPC-9821Mate Aシリーズ)の登場を待つ必要があった。


7-1:例えば16bitマシンならではの高速アニメーションを実現したSQUAREの“α”など。

 PC-8801mkII SR以降等のそれなりにグラフィック回りが強化された8bitマシンでも一応動作はしていた様だが、この種のゲームで求められる秒間フレーム数を稼ぐという点では、CPUパワーに勝る98にアドバンテージがあったのは、理の当然であろう。


8:例えば8bitマシンとしては異例の高精度演算BASICで名を馳せたFPシリーズのカシオ計算機や、国産初の16bit PCであるMULTI 16やその下位機種としてのMULTI 8を出していた三菱電機など。

 MSX規格が所詮“統一規格”という名の新規格でしかなく、しかも移植の容易性という点ではVDPと呼ばれるグラフィックコントローラの制限から1・2共に他の各種マシンとの互換性を欠き(当時のマシンで一般的であった640*400/200解像度での80/40*25文字表示を持たなかった)、それ故にアプリケーションの移植に大きな制約を抱えていた事を思うと、一体何が良くて各社が相乗りに走ったのかは疑問が残るが、参加各社に収益性の高い16bit CPU搭載のビジネスPCを重視し、入門機である独自規格8bit機を軽視した会社が多かった事は注目に値しよう。

 そういった会社の多くがこのMSXやAXの合従連衡策の失敗を経た末に、今またOADGあるいはWintelの下で「標準的」なPC/AT互換機、それもデスクトップPCでは失敗して、如何にも日本的なノートPCを主力商品としている事には何というか歴史の皮肉を感じずにはいられない。

 様子見あるいはお付き合いでFM-Xという中途半端なマシンを出してみた富士通以外の当時の三強、つまりNECとシャープをまともに巻き込めなかった(一応NECはMSX陣営には参加していて、MSX2・PC-6x01両互換機を検討した由だが、結局製品が出なかった=商売にならないと判断された)段階で、この中途半端な規格の先行きはほぼ決まっていたと言っても良いだろう。


8-1:大容量ROMのバンク切り替え機構を搭載した、メガロムと呼ばれる大容量カートリッジも誕生したが、これは非常に高コストであった為、普及し難かった。

 尚、このバンク切り替え機構はMSXの開発当初からZ80 CPUのメモリアドレッシングの制限故に(半ば必然的に)実装されていた機能で、88その他の一般的な8080系8bit CPU搭載マシンでは大容量のグラフィックメモリにアクセスする為の常套手段であったから、取り立てて特別な機構という訳ではない。

 そういう意味ではturboの最終期までバンク切り替えを殆ど使わなかった(turbo系のVRAMアクセスとBIOS利用時を除けば、ワークシート用に大容量バンクメモリモジュールを添付したMicrosoftのMultiplan(X1turbo専用のMSX-DOS上で稼働し、当然そのMSX-DOSもパッケージにバンドルされていた)とZ-BASICでのみ利用された)X1シリーズは、8080系8bitCPU搭載マシンとしては非常に特異な設計であった事が判る。

 余談だが、このメガロム技術は後日ファミコンに応用され、あの任天堂ディスクシステムの息の根を止める役回りを演じる事となった。


8-2:3.5インチFDDそのものはパソコンに限ればソニーオリジナルのSMC-777というマシンでMSXに先行して標準搭載されていたし、あのMacintoshにも採用されていたが、MSXへの採用は何と言っても数の桁が違った。

 ちなみにSMC-777はCP/M-80ベースのDOSを備えるマシンであったが、FDDが3.5インチであった為にデータのやりとりが困難で、当時結構多数が存在したCP/Mユーザーの興味を引くことが出来なかった、という話がある。


9:それどころか、MSX2の頃には搭載FDDによってソフトの非互換問題が、それも皮肉な事にSONY製MSX2マシンを中心に多発して、ソフトハウス側はその対応に苦慮させられた。

 側聞する所に依れば、驚くべき事にFDドライブの論理的な所在位置を示す情報(いわゆるリソースの類)が各メーカー毎に不統一であった事が原因という。

 通常のソフトではインターフェイス側の不整合をROM BASICの拡張部分が吸収するのでこの問題は露見しないのだが、コピープロテクトを目的にFDCを直接、それもイレギュラーな方法でアクセスしようとするゲームソフトでは、リソースの類が異なれば正常動作しないのはむしろ当然の結果であろう。

 その反省からか、MSX2+以降ではこの辺の仕様の厳密化が図られたと言うが、2+以降機種数が激減した事や、そもそもそれでは既存のMSX/MSX2ユーザーには何の問題解決にもなっていない事を考えると、それはあまりに遅きに失した対策であった。


9-1:MOS Technologyの6502をベースにしたカスタムチップを搭載したゲームコンソール。

 これ以上安くするのは困難、という割り切った合理的な設計のマシンだが、ゲームをするだけなら当時の水準ではこれで充分だった。

 何でもこのマシンはシャープ出身の技術者が開発に携わった由で、その関係からかシャープが製造に参加しており、後年になって“ファミコンテレビ”に“ツインファミコン”とファミコンをベースにしつつ独自の付加価値を持たせた愉快なマシンを開発している。

 思えばシャープがMSXに不参加を貫いたのは、X1との整合もさることながら、このファミコンに関わっていた事に大きな理由があったのでは無かろうか?


10:MSX1の時にカシオがMX-10という電卓生産のノウハウをフルに投入した(キーボードも電卓並みであった)超低価格機を出して市場を大混乱に陥れた所にファミコンショックが重なったせいで各社が急いだ、という事情もあってMSX2への移行は割とスムーズに行われたのだが、二大巨頭であった松下(FS-A1)とSONY(HB-F1)が量産能力にものを言わせた低価格攻勢に打って出た結果、MSX2+の時点では両社の他に三洋を残すところまで激減し、結局国内向けは1990年の松下電器FS-A1GT(MSX turboR)で終焉を迎えた。

 ちなみにこのFS-A1GTは、512KBのメインメモリに何を思ったかGUIシェルまで標準搭載されていて、それはそれで長く続いたMSX規格の掉尾を飾るに相応しい、豪華マシンであった。

 MSX2+登場の前後あたりからヤマハの開発した強力な新VDP(VDP9990)を搭載したMSX3の噂があちこちで囁かれていたが、そこまで強化すると98や68、あるいはTOWNSが直接の対抗機種となって来る為もあってか、MSX3は結局出ずに終わった。

 尚、海外向けについては、国内向けの様に漢字表示というMSX最大の弱点が特に問題とならない(1バイトコードで文字種が事足りる)ヨーロッパ向けを中心にその後も暫く供給が続いた。

 その後はユーザーによる地道な活動(それはソフトウェアのみならずSCSIアダプタの様なハードウェアの自作を含んでいた)の時代が長く続いたが、2000年夏には生みの親の一人である西和彦氏によって、公式エミュレータの開発とMSXアーキテクチャの1チップ化(!!)による復活がアナウンスされ、2002年12月にはMSXマガジンも永久保存版と称して復活したので、今後の展開が期待される。


11:正しくはそのセカンドソースによる富士通自社製MB68B09だった。

 この事例の示す通り、この当時の国内PCメーカーは大半が半導体メーカーとしてはIntelかMotorolaのセカンドソーサーであって、自社半導体事業部のシェア拡大の為にPC市場に参入した為、自社製PCには自社製のセカンドソースCPUを搭載するのが当たり前であった。

 ちなみに、この富士通と同じくMotorolaのセカンドソーサーであった日立製作所もBASIC Masterシリーズという6809系CPU搭載PCを販売しており、その最終モデルとなったMB-S1では、当時「究極の8bit CPU」と喧伝された68B09E(当然自社製HD68B09Eである)が搭載され、マッピング方式(実態はバンク切り替え)で当時の16bit CPU搭載PCに匹敵する、1MBのメモリ空間(通常は64KB)を確保していた。

 だが、これだけの技術があっても、売り手の側に本業の合間の片手間仕事、という意識があって、本腰を入れて売る気が無いのでは必ず失敗する。

 PCメーカーとしてのNECの台頭は、この手の「CPU販売促進の為の補助手段としてのPC開発販売」という状態から、市場を読んで「PCを売る事そのものを目的とするPC開発販売」への方針転換を迅速になしえた事に依る所が大きいだろう。


12:PCとしては非常に珍しい、Intel 80186搭載でスタートしたビジネスPCシリーズ。

 開発の途中まで(何でもその頃人事異動で責任者が替わったらしい)はMotorolaのMC68000搭載を前提として設計された、“FM-16α”とでも言うべきマシンであったらしく、その名残でCPUはマザーボードとは別のCPUボード上に実装され(故に後日80286搭載カードが提供された)、メモリについてもこの頃のPCとしては異例の1MB単位の増設となっており、またMC68000搭載のCPUカードもオプション供給されていた。

 ちなみに初代モデルのCPUに80186が選定されたのは、CPU自体にタイマー・割り込みコントローラ・DMAなどが内蔵されていてこれ以上回路設計を複雑化させずに済む事に理由があった様だ。

 そんなマシンであるからハードウェアアーキテクチャ自体は(CPU回りを除き)かなり綺麗であったのだが、如何せんスタート時に標準OSとしてDigital Research社のCP/M-86を採用した(後日MS-DOSに切り替えたが、手遅れだった)為に営業戦略上は失敗に終わり、MS-DOSを標準OSとする、より現実的且つ合理的な設計のFMRシリーズに移行した。


12-1:但し、他と違い移植の大変な6809(ビッグエンディアンとリトルエンディアンの相違の様にコーディングに関わる作法がかなり異なっていた他、補数計算による相対ジャンプやサブCPUとの通信など、機能的に高度な分マシン語プログラミングの難度が高かった)という事でこの時期にはそろそろ敬遠される様になっており、“CRUISE CHASER BLASSTY”(SQUAREと日本サンライズ(当時)が組んで作ったゲーム。「絶対出す」と大見得を切っておきながら遂に発売されなかったので、SQUAREはFMユーザーの恨みを買った)未発売事件などの「移植発売予告は出たが結局開発中止」パターンが散見される様になりつつあった。

 もっとも、その一方でこの優れたハードに入れ込んだソフトハウスも数は少ないながら存在し、FM-7/77を代表する名作ゲームの多く(例えばリバーヒルソフトの“黄金の羅針盤“など)がこの時期以降に出現している。


12-2:良く知られる様に、MC6809にはバイナリコードレベルで上位互換性を備えた16/32bit MPUは存在しないので、6809搭載マシンの上位互換16bitマシンを出すにはCPUの独自開発など、何らかの対策が必要である。

 ちなみにZ80の直接上位互換の16bit CPUも長らく存在しなかった(Z80の開発元であるZirogはかなり後になるまでZ80互換の16bit CPUを出さず、しかもZ280として登場したそれは呆れた事に拡張命令にバイナリどころかソースレベルでさえZirogが自社販売していたZ180(日立HD64180のセカンドソース)との互換性が無いという有様で、混乱をより一層ひどくしただけであった)のだが、こちらは何が意欲をかき立てるのかそれとも余程需要があるのか、日立のHD64180(8bitのままだがDMACにはじまりMMUまで統合された高速版CPU。ちなみに前述の通りZirogもセカンドソースで製造してZ180として販売しており、つまりこのCPUは本家本元の公認が得られた事になる)にNECのμPD9002(有名なV30(8086互換CPU)をベースにμPD70008(Z80のNEC製CMOS高速動作バージョン。別名V10。後期の高クロック版88に搭載)の命令エミュレーション機能を付加したモデル。PC-88VA各モデルに搭載)、それにASCIIのR800(MSX TurboRに採用)といった具合にあちこち(他にも川崎製鉄(現川崎マイクロエレクトロニクス)のKL5C80(KC80)シリーズ及びKL5C160(KC160)シリーズ、東芝のTLCS-Z80シリーズ、或いはABセミコンのAB180、等といった具合にZ80互換プロセッサを内蔵した組み込み用マイコンチップは本当に非常に多数が存在する(未だ現行機種のモノも多数ある)し、更にはXILINXのFPGAであるSPARTAN2用のZ80CPU互換IPなんてモノまで存在するので、組み込み用カスタムチップの内蔵コアまで入れるとZ80の系譜に連なるCPUが何種類存在するのかは確定不能である)でバイナリ互換、あるいはZ80のバイナリコードをエミュレート動作させるハードウェアを実装したCPUが開発されている。

 さらに、東芝TLCS-900ファミリーの様にバイナリ互換性はないがZ80のレジスタ構成を(裏レジスタを含めて)素直に継承し、その動作をストレートに16/32bit拡張したCPUも存在しており、単なるソフトウェア資産の継承のみならず、ソフトウェア開発ノウハウの継承の点でもZ80が非常に重視されていたことが窺い知れる。


12-3:実は他にもビジネスマシンとしてのPCシリーズがあって、MZシリーズとしては異端のMZ-3500は実はPC-3000がベースであった事が知られている。

 NECのN5200や富士通のFACOM9450等もそうだが、オフコンやミニコン等の端末的性格の強いビジネスマシンをホビー/家庭向けとは別の事業部/セグメントで出す、というのはこの時期割と多く見られた現象であった。

 ちなみにシャープは後年PC型番のノートPC(メビウスの前身)を出しているが、出した事業部はともかく、系列的には別口である。


12-4:独自規格の新シリーズとしてはSONYのSMC-70シリーズと同時期の1982年11月の登場であるから、PC-9800シリーズ(初代は同年10月登場)よりも遅く登場した8bitマシンという事になる。


13:今のPCと同様に、ROMにはBIOSあるいはブートローダーのみを書き込んでおいて、BASICの様な言語は起動時にテープあるいはディスクから読み込む構成の事。

 今見るとごく当然の仕様だが、当時はROM BASIC全盛の時代なので、これが奇異な事に思われていた。

 BASICのみならずOS(CP/M-80)や多種多様な言語(BASICだけでも複数が存在)が使用可能な事が売りだったが、テープの場合ロードにかなり時間がかかるので、それを嫌う向きもあった。


14:8080系のCPUでは一般にI/Oポートに対する読み書き命令は OUT C,A の様に8bitのレジスタ1本でアドレス指定される。

 つまり、8bit=256通りのポートアドレス指定しか出来ない事になるのだが、Z80の場合、ポートアドレス指定にメモリアドレス指定時と共通のアドレスデコーダを利用する為か、このCレジスタを用いたアドレス指定の場合、メモリアクセス時と同様Cレジスタとペアで用いられるBレジスタの内容も参照/出力されており、実質的に16bitのIO空間が確保出来る事になる。

 X1系のマシンではこれを利用して16*3=48KB(X1)・16*3*2=96KB(X1turbo:2ページのバンク切り換え)の大容量VRAMをI/Oポートに接続してあった。

 無論、I/O転送であるから直接メモリへのアクセスするのと比べれば低速であったが、メインメモリの一部をバンク切り替えしてVRAMを読み書きしていた機種に比べるとプログラミングの柔軟性や容易さで勝っていたのは確かである。

 ちなみにX1の場合、文字などのキャラクタパターンを表示する為のテキストVRAMもこのIO空間上に配置されていて、PCG(Programmable Character Generator)と呼ばれる文字キャラクタを多色グラフィックキャラクタに置き換えて表示する機能(それは最も原始的なスプライト機能と呼べるかも知れない)も持っていた。

 従って、64KBあるメインメモリは本当にプログラムの為だけに割り当てられたし、グラフィックをテキストVRAM上のPCGに任せればVRAMをワークRAMやRAMディスクに利用する事さえ可能であった。

 この「柔軟性」のあるハードウェアアーキテクチャ設計思想はその後X68000開発時にも継承される事となる。

 なお、この辺の仕様はZ80の製品寿命の末期には仕様書に追加記載されていたらしいが、一般の書籍でこの辺をきっちり説明したものは稀であった。


15:イジェクトを含め、PC側からフルロジックリモート制御が可能な低エラーレート型データレコーダを搭載したのは、国産データレコーダ搭載PC数あれど恐らくこのX1系とMZ-2500系のみの筈である。

 逆に言えば、読み書きのエラーレートでシャープ系メカデッキに匹敵する性能のデータレコーダが作れなかったが故に、NECと富士通は自社製8bitマシンへのFDドライブ搭載を急いだと言っても良いだろう。

 その一方で、シャープはMZもXも共にディスクメディアに関しては何故か負け組につく事が多くて、磁気ディスクではMZ-1500のQuick DiskにX1の3インチFD(共に日立マクセル絡みである事は注目に値しよう)と失敗を繰り返したし、X680x0でも結局時代の一大潮流を成したCD-ROMを公式サポートしなかったりしたのである。

 もっとも、X1 turboには20MBのHDDが、そして68には高価な5.25inchのMOドライブ(CZ-6MO1)が何故か純正ハードウェアオプションとして用意されており、OS側もこの種のドライブに対する対応がとられていたので、当時のシャープが大容量メディアに全く関心が無かった訳では無さそうなのだが。


16:もっとも、ザナドゥの方は動いている、という以上の物ではなく、そのアクセスの余りの遅さに泣いた人間はかなり多かった筈である。

 何しろシステムのロード及びユーザーテープのロードでゲーム開始までに実に半時間以上の時間がかかったのだから只事ではない。

 それがラスボスの手前でセーブしていて瞬殺されるシチュエーションだったりしたら、わずか15秒程のプレイの為の半時間ロードを反復する事を強要される訳で、当時これあるが故にザナドゥのクリアを断念した人間も結構いた。


17:X1のグラフィック性能等の不足による、移植の困難化も原因に挙げられる。

 もっとも、そうであればこそグラフィック等の機能拡張が施されて充分移植に耐えられたX1turbo系向けには結構長い事新作が出続けたのも事実である。


18:型番だけでも8bitとしてのMZ-80K/B/C,700,1200,1500,2000,2200,2500,2500V2,16bit/8bitハイブリッドでエミュレータによるPC-9801UV互換を実現した2861,ビジネス機であるPC-3000と互換性が高い8bit機の3500,16bitのCP/M-86/MS-DOSマシンである5500,6500(他に輸出用としてMZ-800等も存在)となる。

 MZ-80系はある程度アーキテクチャ的な互換性を備えていたが、それでもB系とC系ではグラフィックを中心に仕様がバラバラで、上位互換を謳ったMZ-2500シリーズでも完全には互換性を保証出来なかった様だ。

 一応、Z80A搭載機に関してはBIOSのエントリアドレスだけは最低限揃えてあったとも言うが、ゲームの開発や移植の対応を考えると、それだけでは何の解決にもならない事は明かであろう。

 なお、これは余談だがシャープのAXマシンであるAX286/386シリーズも型番はMZ-8xxxが割り当てられていて、X680x0がCZ型番で処理されるのと同様に、修理依頼等の際には商品名ではなくMZ型番で問い合わせねば話が通じないらしい。


19:奈良県天理市に本拠を置き、我が国の電子計算機の草創期からの歴史を持つ。

 一時期は電子計算機事業部の名(幾度か事業部の編成替えを行っている為、現在の名称は違う筈である)で呼ばれていて、電子手帳→ザウルスという流れでPDA市場における成功を収めた事でも知られ、現在、“メビウス”というブランドでPC/AT互換機の製造販売を行っている。


20:データレコーダを留守番電話に利用して一体どんなメリットがあるのだ? という意見もあったが、それを考え探す事も又、PCの楽しみであろう。そういう意味では非常に自由度が高くて楽しいPCであった。ちなみにZ80Bのコストがかさんだのか、それとも高クロック対応品が存在しなかったのか、この機種にはDMAコントローラ(Z80DMA)が搭載されておらず、それ故いわゆる2HDフォーマットのFDが読み書き出来ないという問題があった。


20-1:速度と拡張性、それにソフト資産の互換性のバランスでは、歴代MZ中でもこのMZ-2531がベストである。

 これは、同期以降のこれ以外の各モデルではコストダウン重視でデータレコーダがインターフェイスごと切り捨てられて記録媒体が3.5inch 2DDに制限され、ついでに留守電連動機能などのMZ-2500特有の機能も使えなくなった為で、従来機種のユーザーがソフト/データごと移行するには2531しかない、という事になった訳である。


21:PC-9801UV互換と銘打ったのは、幾ら80286を搭載していてもEGCのフォローが出来なかった為にVX以降用アプリが動作しない可能性がある為と、標準で5.25インチFDドライブを搭載しなかった為にプロテクトの問題からVM以前の機種用5.25インチFD版ソフトが動作し得ない場合がある為で、公式に動作確認がとられたのは10数本程度に留まった筈である。

 V30マシンを80286搭載マシンでエミュレートしていた訳だが、動作速度的には決して充分とは言えなかった為、ストレートにハードごと模倣して高速動作を実現したEPSONの98互換機(有名なPC-286 Model 0の登場はこれとほぼ同時期であった)と、これにタイアップして狂った様に高速化していった本家98の前に敗北を喫する事となった。


21-1:業務用としては16bitマシンであったMZ-6500系が存続し、最終型のMZ-6556はAX出現前夜まで、とある取次会社による書店受発注システムの端末として納入されていた事が確認されている。

 余談になるが、シャープの386搭載AXマシンであるAX386は、このMZ-6556のミドルタワー筐体を流用していた。


21-2:大まかに言うとX1系が初代、C、D、F、G、それにTwin、turbo系が初代、IIそれにIII、turbo Z系が初代、II、それにIIIとなる。

 それぞれサブタイプが幾つか存在するが、この3系統は例外となるD(通常のデータレコーダ用端子しか実装されておらず、改造しない限りは専用データレコーダのフルロジックコントロールが出来ない)とturbo Z III(データレコーダインターフェイスが完全に省略されている)を除けば、それぞれの系統内のハードウェア最大拡張時の仕様がほぼ同一となっていた。

 つまり、デザインとしてはどれも初代モデルの時点で完成されていたという事になる。

 なお、“turbo”は“Tailored, Up version Resolution,Bussiness,Oriented use”の略でこじつけ以外の何物でもないが、後年あのNeXTやMSXも改良型上位機種/規格に“turbo”と命名しているので、その意味では先見の明があった事になる。


22:この頃の一般的な感覚ではBASICという事になろう。

 問題はそのBASICがシャープの場合、“クリーンコンピュータ”を売り物にする関係で機種毎に改良を重ねつつ開発/バンドルされており、特にアーキテクチャの仕様が錯綜したMZの場合、細かなパラメータレベルで互換性の無い物となってしまっていた事であった。

 加えて言えばクリーンコンピューターであるが故に、各地のソフトハウスも自前で特徴のあるBASIC(中には“姫路BASIC”などの様にその名に会社所在地の地名を冠したものまであった)を発売しており、文字通り百鬼夜行状態であった。

 無論、それにはそれなりの正当性あるいは必然性があったからこそその方針が採られていたのであって、事実、使用目的毎に特化したBASICを「選べる」事が有利に働く場合も多々あった。

 だが、それは逆に言えば“標準化”の対局に位置するアプローチであり、小ロット単位で出荷される多種多様な業務ソフトウェアの生産効率という点では問題があった事は否めまい。

 その点、性能では難点や不満が多々あったがNxx系BASIC、特にN88 BASICの仕様をかなり無理しつつも最後まで墨守したNECの方針は、戦略として正しかったという事になる。


22-1:HUDSONが開発し、当初はMZ-700用に提供された、Microsoft系BASICとは一線を画した設計のBASIC。

 同じ動作を別の命令で実行可能だったり、一つの命令で複数の動作をサポートしていたり、あるいはプログラム入力時に省略形が使えたり、と無闇やたらと強力なインタプリンタを実装しており、その動作は非常に高速だった。

 X1用としてはX1初代からバンドルされていたVer.1.0、X1 turbo用として更に強力な命令や漢字表示機能等を追加したturbo BASIC、そしてその機能をフィードバックし、無駄を省いてフリーエリアを拡大したVer.2.0(X1F/G等にバンドル)が提供され、最終的にはturbo/turbo Z専用となるがバンクメモリをサポートし、より強力になったZ-BASICまで進化した。

 この系列のBASICの欠点はフリーエリアが極端に少ない事で、大きなプログラムの移植や実行にはそれなりの工夫を要求された。


23:MZ系の開発陣が実績あるMicrosoft製BASICに背を向けて、“オレンジBASIC”あるいはS-BASICの名で知られる自社オリジナルBASICの開発搭載に熱心であったのは事実である。

 それは、雑誌等で幾度かなされた、彼らに対するインタビューでも明らかな通りである。

 また、いわゆるシステムハウスとしてのハドソンと同社の関係は、MZシリーズ向けにHu-BASICを出荷して以来の付き合いであり、その実績に、やはりMS的な“標準”に対する反発心が強い事が明白な、当時のX1開発スタッフが飛びついたであろう事は想像に難くない。

 実際問題として、S-BASICにしろ、Hu-BASICにしろ、文法や使い勝手の点で明らかにM-BASICに対するアンチテーゼ的な提案を多数含んでおり、処理速度の点でも上回る部分が多々あって、双方の開発陣がM-BASICに対して決して好意的ではなかった事が伺える。

 そして、この独自BASIC開発の流れは、最終的にMZ-2500用V2-BASICおよびMZ-65x0用BASIC-3とX680x0用X-BASICという形でそれぞれ終極的な解を得る事となる。


24:但し実際にはそのセカンドソースで高速なCMOS版のHD68HC000(日立製)が搭載されていた。

 デビューから5年以上を経て値段的には枯れていたとはいうものの、Macintoshへの搭載のお陰で高価な印象のあったこの石の採用は衝撃的であった。


25:物理的な制限は多少あったが、セグメントが無い68000という事でリニアに12MBまで増設可能であった。

 つまり、積めば積むだけRAM DISKの容量やロード可能なプログラムのサイズが大きく出来たのである。

 実際、X680x0向けには搭載メモリ量を見てプログラムやデータを一気に読み込んで、ディスク交換やディスクアクセスそのものを不要とする機能を内蔵したソフトが(ゲームからSX-WINDOWに至るまで)多数作られた。

 但し、X68000エミュレータ“けろぴー”の作者であるけんじょ氏によれば、初代CZ-600CについてはBIOSのバグが原因で12MB実装すると起動でトラブルの出るケース(ユーザエリアのラスト4バイトを初期値にしておいて、メモリ未実装故にバスエラーが出る事で「設定されてない」事を検出する起動プログラムがあって、メモリをフル実装すると当然バスエラーが出ないので既に設定されていると判断してそこにジャンプして誤動作する)があり、“けろぴー”がメモリ10MB上限とされているのもそれが理由であった由である。

 尚、この頃のPC-9800シリーズでは10MB以上メモリを積めるマシンはまだ無かったし、そもそもそのメモリをリニアに利用する術も(開発途上のOS/2などを除けば)殆ど存在しなかった。

 当時の98ユーザーにとっては、増設メモリというのはEMSメモリとかプロテクトメモリとかややこしい名称の付いた恐ろしく高価なボードの事で、それはCバススロットに挿してMultiplanや1-2-3のセルの、あるいは一太郎の文書の最大サイズを拡大する為だけの物であったのである。

 ちなみに、98のメモリ搭載量が80286とCバスの仕様に起因する14.6MBの壁を破るまでには、NESA搭載のPC-H98/SV-H98シリーズを別にすれば、初のPentium(P5)搭載マシンであるPC-9821Afを待つ必要があった。


26:このマシンに搭載されたFM音源チップは、6オペレーターでステレオ8音の発音機能を備える、OPM(YM2151)がX1系に引き続き搭載された。

 このチップは一時代を築いたシンセサイザーであるYAMAHA DX7の系譜に連なる物で、NECが愛用したOPN系とは異なり、純然たるFMシンセ用として設計された為にリズム音源等は一切搭載されていなかった。


27:沖電気のモノラル1音AD/DA変換チップを採用していた。

 これは元来留守番電話用のチップであるらしいが、詳細に関しては不詳である。

 なお、このチップはそのデータ容量の割に音質が良いという理由で採用されたらしい。


28:つまりVRAMはトータルで1MB。

 テキスト用512KBは一般的なRGBプレーンによる水平型のビットマップ、そしてグラフィック用の512KBはゲーム等で多用される局所的な色の変更に有利な垂直型のパックドピクセルによるビットマップという構成で、これは恐らく国産PC初の組み合わせであった筈である。

 この内、グラフィック用512KBはX1以来の伝統でRAMDISKとして利用可能であった。

 なお、パックドピクセルによるVRAMアクセスを採用した国産マシンとしては、他にFM TOWNS・PC-9821シリーズ(640*480 256色の9821ネイティブモード時)などが存在する。


28-1:そう、2001年秋にテロ攻撃によって倒壊したあの2つのビルがデザイン上のモチーフであった。

 モチーフの件はともかく、この“コ”の字状に基板を配してその間にポップアップハンドルを取り付けた筐体設計は、その独創性という点では唯一無二のものであり、グッドデザイン賞を受賞したのもある意味当然であろう。

 登場から既に15年以上が経過したが、国産PCでこれ以上に格好の良い筐体を持つデスクトップPCは未だ存在しない。


29:MS-DOS Ver.3.3を基本にファイル管理を中心に独自の拡張を加えた仕様を持つ、Human68k Ver.1.0と呼ばれる独自仕様のDOSが用意された。

 もっとも、これはM68000系MPUでは関係無い筈の環境変数の255文字制限など、良くも悪くも原型となったMS-DOS Ver.3.3の仕様をストレートに継承(MS-DOSをリバースエンジニアリングしてパクったんじゃないのか? という話もあったが、「対応CPUが違うのでセーフ」という、PC-DOS(MS-DOS)がCP/M-80をコードごと平然とパクった際の言い訳の前例があったので問題とはならなかったらしい(苦笑))しており、以後のバージョンではヒストリの強化やネットワーク対応を意識したエイリアスのサポート(純正LANボードが80186搭載の超高価品しか発売されなかった為、結局本来の目的では殆ど利用されなかった)など明らかにUNIX寄りの、本家MS-DOSとは少々違う方向性で強化が図られて行く事となる。

 ちなみに、FDのフォーマットはPC-9800シリーズ用MS-DOSの5.25インチ2HDフォーマットとほぼ同一で、MS-DOSではリザーブとされていたエリアに踏み込んだファイル名の文字数の拡張(ファイル名本体8文字+拡張子3文字が本体18文字+拡張子3文字になった。但し実際にはHuman68kは標準で18文字中前から8文字までしか認識しておらず、フルに判別可能とするにはTwentyOneというフリーソフトが必要である)が重要な変更点であった。


29-1:当時「1ドットでも違っていたら私は腹を切る!」と開発者が豪語していた事はつとに著名であるが、実はアーケード版と違う所が結構ある(苦笑)。

 もっとも、そうは言っても当時としては水準を大幅に上回る出来の移植ではあったのだが。

 付属ゲームがこれであった事は、以後のX680x0用ゲームの水準を決定しただけではなく、その方向性も決定してしまったと言っても過言ではあるまい。

 なお、このゲームのバンドルは初代CZ-600Cのみで、以後の機種のユーザーはこのソフトをシャープに「補修部品」として発注して入手していたという話が残されている。


30:エディタ・アセンブラ・リンカの3点セットが用意されていた上に、IOCS(BIOS)ROMにはRS-232Cのクロス接続で動作するリモートデバッガも組み込まれていたので、本体を買えば後はモニタ用のPCをもう一台用意してクロスケーブルでつなげば、それだけでもMC68000用ソフトを開発出来た。


30-1:ハードウェアについては、拡張ボードの類は流用不可だったが、ジョイパッドやプリンタ等は流用が利いた。

 但し、X1系以来の悪癖で出力信号しか持たされなかったので、X680x0系マシンのプリンタ端子では双方向通信を利用した高速印刷は出来ず、以後のプリンタ利用には問題が多い。

 只、この辺の仕様については当時の98も似たり寄ったりで、98のプリンタポートでフルセントロニクス(これはPC-98型番のハイレゾ機ではサポートされていた)かつ双方向通信をサポートするのはPC-9821As2/Ap2の世代以降(つまりMate Aでも一世代古いAe/As/Ap/Afでは出来ない。但しPC-H98シリーズ等のNESAバスマシンでは最初から双方向通信可能で、As2/Ap2はこの仕様を流用した)で、つまり98でもX680x0の最終モデルとなったX68030の発売前に出た一般向け機種では出力しか出来なかったのだから、この仕様も致し方ないだろう。

 もっとも、その一方でX1で連射スティックがつないだだけでは動作せず不評だった(電波新聞社のXE-1 PRO等では連射回路用に電池を内蔵する構造になっていた)ジョイスティック端子は8ピンをデータ通信に使用する(つまり9ピンある内GNDに割り当てる1本以外全てをデータ用とし、電源供給ピンを持たない)のを止めて、その内1本を5V給電ピンに割り当てる様に仕様変更されており、この端子ではデータ入力のみならず出力も可能であった為、シャープ製電子手帳管理ソフトでは専用ケーブルを同梱する事で電子手帳とのデータ通信に有効活用されている。

 なお、余談になるがX1/X680x0系の文字コードセットは98と外字領域の定義が異なり、98のコードセットを前提とする世間のプリンタでは外字が化けるという現象が当然の様に発生していた。


31:X68000本体が1万台も出荷されていない頃に1万本を売り切ったと伝えられる“スペースハリアー”、発売直後のFM TOWNSのキラーコンテンツと直接衝突して、ゲームの移植の出来が必ずしもCPUの高速さやビット数、それに額面上のスプライト機能の華々しさではなく、グラフィックコントローラの機能的な柔軟性や、プログラマの見切りとセンスにこそ大きく依存するものである事を証明した“アフターバーナー”、それに68のカタログスペックでは考えられない様な驚異的な大キャラクタが画面上所狭しと動き回った“源平討魔伝”、と秀作・傑作を連発した。

 無論、X68000の実機が存在しない時期にPC-9801上のクロスアセンブラで書かれた“ゼビウス”の様に、決して良い出来とは言い難い作品も見受けられたが、このシリーズは総じてクオリティが高く、以後のX680x0ゲームソフト市場へ参入するソフトハウスにとって重要な影響を及ぼす先進導坑や試金石の役割も果たした。

 それ以前に、そもそもゲーム目当てで購入した当時のX680x0ユーザーで同社製品を一つでもプレイしなかった人間というのはかなり少数に留まるのでは無かろうか?


32:ADPCM関係でバグがあった事が後年判明した程度で、少なくとも致命的なハードウェアエラーは発生しなかった。

 またIOCSをはじめとするROMの内容についても殆ど問題無く、あってもプログラム側で手当出来る程度のものであった。

 ちなみに、ADPCMのバグの件についてはリコール対象となったので、該当マシンはシャープに依頼すれば無償で回路修正して貰えた。


32-1:ドライブの構造上の問題で、ヘッドのディスク面への吸着→起動不能現象が起き易いらしい。

 無論、製造から15年以上を経過した昨今では、未だに正常動作する個体が存在する方が驚きだという話もあるが。


33:ビジュアルシェルはそのままではSCSIインターフェイス搭載機種ではドライブを認識出来ない為に正しく動作しないが、公式にはその修正は行われなかった。

 SX-WINDOWがあれば間に合わせのVS.Xは必要ない筈だ、というメーカー側の見解は理解出来るが、SX-WINDOWはRAMが最低でも4MBなければ実用にならなかった事や、既存マシンのユーザーがSCSIボードを購入し取り付けた場合の事を考えると、ビジュアルシェルのSCSI対応の必要性もあったのでは無かろうか?

 ちなみに、このVS.XのSCSI対応版は有志の作成した物がOh!Xの付録FDで一度ファイラーとして収録された事があった。


34:内蔵可能な2.5インチSCSIハードディスクドライブが恐ろしく高価だった為に見送られたらしい。

 もっとも、ドライブの追加搭載自体は一応考慮されていた様で、後日2.5インチドライブの入手性が良くなってから専用増設ドライブ(ドライブとSCSIコントローラ基板を一体にした物で、Compact XVI本体に当初から内蔵されているSCSIコントローラ基板と交換する)としてCZ-5H08(80MB)とCZ-5H16(160MB)が追加発表されている。

 そもそもこの時点でデスクトップPCに2.5インチHDDを内蔵しようと考える段階でかなりチャレンジャーな感じ(苦笑)なのだが、そういう無謀さもXシリーズの魅力の一つであった。


35:分解に当たってはネジをたった一本外すだけで済んだ。

 但し、プラスティックの爪で固定されている部分が多かったせいでそれを折ってしまう人間が続出したという話もあるが・・・。


36:最大の改良点はZeitのJG font形式のベジエ曲線によるアウトラインフォントと、同じくZeitの書体倶楽部形式のベクトルフォント(これはZ's STAFF PRO68K Ver.2.0に添付のフォントの形式だと言った方が判りやすいかも知れない)に対応した事であった。

 表示/印字品位から言うと当然JG font形式のアウトラインフォントがベストだったが、明朝体と角/丸ゴシック体が別売り(それぞれ太さの違う書体が収録されていた)で、3セット揃えると確か10万円程かかった為、あまり利用者はいなかった(そもそもこの機能を必要とする使途でのSX-WINDOWの利用者自体が少なかったという話もあるが)様だ。

 ちなみに筆者はレーザープリンタ(EPSON LP-9000)で印刷する為に明朝体セットは買った(今も持っている)が、そのあまりの高価さと書体の個性の強さ故に後が続かなかった(苦笑)。

 なお、開発が急がれていたSX-WINDOW標準のアウトラインフォントは遂にOS自体には標準添付されずに終わり、結局シャープ発売のDTPソフトであるXDTPに第一水準の明朝体とゴシック体が、そして同じくシャープ発売の書家万流にフルセットの明朝体とゴシック体が添付されたに留まった。


37:640*480で24KHzの画面モードにしか対応していないので、当然既存の15/31KHz系画面モードのゲームは表示出来ない。

 従って、わざわざ本体の2倍の値段を出してまでして、ゲームの映らないこの製品を購入した人間は少なかった筈である。

 X680x0の命であるゲームソフトやグラフィックソフトが殆ど全て使えないこのモニタを、敢えて本体側にコスト増につながる専用ドットクロックオシレータを追加してまでして無理矢理売ろうとした意図は一体何処にあったのだろうか?

 なお、640*480という解像度はX680x0においては事実上このモニタの為だけに存在し、また対応ソフトもSX-WINDOWのみであった。

 つまり、このモニタを購入するというのはX680x0をSX-WINDOWマシンとしてのみ使用する事を意味したのである。


38:グリーンPC自体は国内向けを見回してみると、例えばNECのPC-9821Esが1994年発売なので、約2年程先行していた事になる。

 液晶パネルを内製している会社はどうしてもこういう方向性の製品を開発してみたくなるものなのか、以後幾つかの会社が似た様な事をしているのだが、それにしても本格的に製品化されたのは随分経ってからの話なので、やはりこれは早過ぎたと言う他無い。

 逆に言えば、この時点で既に生産過剰の液晶パネルの応用の可能性を探る事が出来る程、シャープはカラー液晶生産技術で先端を走っていたという事である。

 ちなみにこの問題は、結局シャープが自社でカラー液晶搭載PC/AT互換ノートPCであるPCシリーズ(メビウスの前身)を出す事で一応の解決を見た様だ。


39:クロックオシレータ回りの配線を変更し、クロック切り替えスイッチ(24/16MHz)を追加したマシン。

 不人気モデルをベースにしたメーカー保証のある改造機という異色の存在であるが、案外安価に設定されていたので、030登場後も結構長く販売された。

 こういう物が製品レベルで出せる位にはCompact XVIはオーバースペックなパーツ/設計であった訳で、如何にもバブル期の機械らしい話ではある。


40:つまり、SX-WINDOWの最終バージョンとなったVer.3.1は付属すべき本体が出ない状態でパッケージ販売、あるいは既存の登録ユーザーを対象としたバージョンアップ版販売という形で世に出る事となった。


41:マシンの改造のみならず、筐体の分解方法まで解説されたインストール用CD-ROM&5インチFD付き書籍が発売されていた。

 純正ではCD-ROMドライブをサポートしないマシンが対象である為、機能限定版の計測技研製CD-ROMドライバをFDに収録するというかなり無茶な内容の本であった。

 そもそも標準状態のX680x0ではNetBSDは理屈上動作しないので、XVIであれ、030であれ、どこかしら改造せねばならないという段階で無茶苦茶な話ではあるが、それを平気で受け入れていた当時の68ユーザーの状況が偲ばれる。


42:メモリチップの列(Column)アドレス指定信号(CAS:Column Address Strobe)を静的(Static)状態においたままで連続データ転送を行う事を可能にしたメモリ。

 X68030では日立製のチップが実装されていた。

 これによって、X68030の場合メモリのページをまたぐ時(RAS:Row Address Strobe=行アドレス指定信号が発行されるので1クロック待たされる)を除いてノーウェイトでのメモリアクセスが可能となった。

 性能的には当時一般的に用いられていたFast Page Mode DRAMとほぼ同等かそれ以上、しかもメモリチップそのものはやたらと複雑な構造だが実装するマシン側の基板回路設計は容易、とそれなりにメリットのあったメモリだが、やはり少数派だけにどうしても高価で、それ故にPCでの採用事例はこのX68030が最初で最後となったらしく、以後あっという間に廃れた。

 ちなみにX68030でここまで凝ったメモリが採用されたのにセカンドキャッシュ(L2C)が導入されなかったのは、25MHzでほぼノーウェイトのメモリアクセス性能が得られる以上、L2Cは不要どころか害にさえなりかねなかった為である。

 もっとも、この構成ではこれ以上バスクロックは上げ難い(事実X68030ではスタティックカラムモードのままだと30MHz程度までしかクロックアップ出来ない)訳で、この対策としてノーマルモードでメモリを動作させる為のジャンパパターンが用意されていたのだが・・・。


43:但し、本体内部のSCSIケーブルはX68000 Compact以来の2.5インチHDDを前提とした高密度の特殊な物(余所での入手は事実上不能)なので、3.5インチハーフハイトの一般的なSCSI-HDDを搭載するとしてもケーブルの加工か自作(そもそもコネクタからして入手難だ)が必要であり、それなりの技量と覚悟を要する。


44:PLCC版のMC68882FNを専用ソケットに差し込んで搭載する。

 PLCC版の68882は同時期のMacintosh LC III等でも採用されていたので、発売当時は比較的入手が容易なパーツであった。

 もっとも、高速な25MHz版と33MHz版はそれなりの価格が付いてはいたが。

 理屈上はピン互換(命令セットやアーキテクチャは微妙に下位互換)の68881でもOKの筈(Human68k Ver.3.00以降に付属の浮動小数点演算ドライバであるFloat4.Xではこの2つを自動判別する)だが、ここはやはり指示通り上位モデルである68882を搭載するのが正解であろう。

 ちなみに、この68882は専用バスでMPUと接続されているので、XVI以前の様なメモリバス経由の拡張ボード搭載という形態(ドライバ名はFloat3.X)に比べれば劇的な高速化を実現したが、Float4.Xを介した標準的な手続きでアクセスした場合、逆にそのドライバそのもののオーバーヘッドが極端に大きくなる為、あまり幸せになれない。

 それ故、この種の浮動小数点演算を多用するアプリケーション(特に影響の大きいDoGA CGAシステムの様な3Dレンダリングソフトなど)ではアプリケーションが直接MPUとFPUを叩いて判別し、MC68030+MC68882であった場合にだけ専用プログラムに切り替える、という構造の物が続出する事になった。


45:前作に当たるCompact XVIではイメージ入力端子が省略されていたが、これは動画作成を行うユーザーを中心に結構需要があったらしく復活し、むしろ立体視端子の方が利用頻度が極端に低い(対応していたのは“目を悪くする”と評された“ツインビー”等、ごく一部のゲームに限られた)為にこちらが省略となった。

 こうなると背面パネルのレイアウトが困難となるが、これは従来フルピッチコネクタが実装されていたイメージ入力・SCSI・外部フロッピーディスクドライブの3コネクタをハーフピッチ化する事でクリアしている。


46:SX-WINDOW向けに書かれたアプリケーションの中でも恐らくは最大の収穫。

 表向きはエディタという事になっているが、その実体は画像データの張り付けやアウトライン/ベクトルフォントに対応した相当高度なワープロソフトであった。

 ちなみに、その開発元である計測技研からは“シャーペン ワープロパック”という強化ソフトが発売されていて、そこでは縦書きさえサポートされていた。

 ワープロパック無しでは、いや、ワープロパック適用状態でさえ使いこなしにはそれ相応の工夫や苦労があったが、実装メモリ僅か8MB(しかも仮想記憶無し)のマシンで簡易とは言えWYSIWYG的なDTP環境を実現出来たのだから、93年の段階でのOS付属エディタとしては驚異的であったと言って良いだろう。

 もっとも、その割にプリンタドライバは貧弱で、300dpiのESC/PageやLIPS III、あるいはPM-700Cのネィティブ対応が精一杯(一応Post Scriptもサポートされていたが、起動時にプリンタ側フォントを延々チェックするという悪夢の様な仕様で、とても実用になる様な代物ではなかった)でしかなかった訳だが、そのあまりの便利さ故に筆者は長くX68030(というかSX-WINDOWの環境)から離れられなかった程であった。


47:ドライブ自体はCompact XVIの物と030 Compactの物とでは殆ど相違はない。

 無論、細かく見ると相違が存在していて、それ故にCompact XVIのドライブでは2DDが読み書き出来ない(但し一部のロットのドライブに関しては改造する事で対応可能であった)訳だが、根本的には付属OSで対応可能となったか否かが最大の差であった。


48:実質的には搭載メモリ量と付属アプリケーション、それから実装ハードディスク容量及びインターフェイスの種類の相違に留まる。

 当然ながら物理的設計は世代を重ねるごと徐々に改良が進み、回路のASIC化の進行で基板の集積度は後になる程向上してはいるが、ソフトウェア側から見るとSUPERでのSCSI採用に伴うハードディスクインターフェイスに関わる変更を除けばその互換性は可能な限り維持されており、例えばメモリを増設したACEとEXPERT IIを区別する術は基本的に存在せず、またその必要も無い。


49:16MHz動作時にウェイト挿入量の不足からFM音源のタイミングが狂うソフトがあった事が知られているが、これとて10MHz動作に切り替えれば正常に動作した。つまり、10MHz動作時にはSUPERとソフト的に完全互換であったという事になる。

 無論、XVIの価値は16MHz駆動と“Power to make your dream comes true.”のロゴで知られるその新しい筐体デザインにこそあった訳だが。


50:この50MHzの供給・その分周によってVGA相当の640*480で水平同期31KHzの画面を生成するようになった。

 この画面モードはCompact XVI付属のSX-WINDOW 2.0以降でのみサポートされており、これを利用したHuman68k対応アプリケーションはフリーソフトを含め殆ど作られなかった。

 但し、この3番目のドットクロックオシレータは、後に50MHzの物から80MHzや100MHzの物へ交換・改造する事でSX-WINDOWのCRTC直接制御によるオリジナル高解像度モード動作時の垂直同期信号のクロックアップに役立てられた(Compact XVI以降にしか存在しないこのオシレータを使用するゲームはまず無いので、その点でも好都合であった)りしたから、決して無駄にはならなかった。


51:良く出来たゲームに限って、そういう互換性に関わる様な部分に踏み込むプログラミングがなされる事が多かったのは事実である。

 また、割と良く知られている通り、このPRO系はバックアップ電池回りの回路設計に不備があったのかSRAMのデータ破損が発生しやすく、本文中で述べた様に、これが原因でPRO系でだけ、正常動作しないプログラムというのも存在した。


52:但し、少なくともXVI開発の時点までには68020搭載の32bitマシンが試作されていたらしい。

 発売に至らなかった理由は幾つかある様だが、少なくともXVIの時点で32bit化が実現されていればX680x0シリーズはもう少し延命出来たものと思う。

 恐らくシャープ側としてはHuman 68k Ver.2.0以前に内在するFライントラップの互換性問題があったが故に慎重にならざるを得なかったのだとは思うが、X68030発売時のその辺の対応ぶりを見る限りは、もう少しユーザーやソフトハウスを信用しても良かったのではあるまいか。

 余談だが、ブートにHuman 68kを使わなかった一部のソフトハウス、例えば「黄金の羅針盤」や「マーダークラブDX」等に代表されるリバーヒルソフトのゲームは、初期の物を含めて全てX68030で問題なく動作した。

 この事から判る通り、明らかに最初から020や030を搭載したモデルが登場する事を睨んでソフト開発を行っていた(もしかしたら利用したツールがそうなっていただけかも知れないが、68000に最適化すれば高速化が容易な部分を敢えて汎用コードで書いてあったという事は、そういう意図がソフトメーカー側にあったという事であろう)会社もあった訳で、OS開発の最初の段階でそれを考慮していて然るべき立場にあった筈の当のシャープやHUDSONがそれを怠っていたのは、正直言って理解に苦しむ。


52-1:1989年2月25日に宮沢りえをイメージキャラクターとして、電脳遊園地というイベントと共に大々的にデビューした、386搭載の32bitパソコン。

 富士通自身は当初“日本のMacを目指す”と息撒いていたが、そのハードウェアの設計コンセプトはどう見ても「CD-ROMドライブと80386を搭載したX68000」(X68、PC-88VAに続く同じ市場を狙った三番目のドジョウ(苦笑))で、確かにスプライトなどのグラフィック機能については額面上のスペックは立派だったが何とも自由度が低い(巨大スプライトがご自慢のスプライト機能を利用する為には、背景となるグラフィック画面のサイズや色数が厳しく制限された)グラフィック回路設計で、出来の良いアーケード移植ゲームが極端に少なかった(あってもCPUパワーにものを言わせて力ずくで動かす、クレバーとは言い難い実装のゲームが多かった)事が印象に残る。

 ちなみにこのシリーズのFM音源はYM2612(OPN2:メガドライブに搭載された事で知られる)、YM3438(OPN2C:OPN2のCMOS版。SEGAのアーケード機で多用された)あるいはYMF276-M(TOWNS IIに搭載。型番から考えてYM2608に対するYMF288/297と同様に前2者の生産完了に伴う代替品と考えられる)で、4オペレータのFM音源6音が利用可能であった。

 このマシンのアプリケーションを揃えるに当たって、当時の富士通は各種ソフトハウスに多額の金を支払って移植なり開発なりして貰うという、何ともバブリーで頭の悪い戦略を採っており、それ故ソフトの数だけは短期間で揃えることに成功していたが、正直な所を言えば、およそ魅力的とは言い難いラインナップであった。

 このマシンはどちらかと言えば動画再生に特化した仕様で、データウェストのD.A.P.S.によるアニメーションを多用したアドベンチャーゲーム(“第四のユニット”シリーズなど)等の様にCD-ROMの大容量に依存したデザインのゲームや、教育市場向けCAIソフトなどにはその真価を発揮した。

 また、素直な設計の、しかも標準解像度がVGAと同じ640*480でAV機能がある一定水準以上に揃った386マシンということでhabitatをはじめとする外来ソフトウェアの移植プラットホームとしても良く利用されたが、オリジナルのゲームにこれ、という決定打を欠いた為、最後まで時代の主流にはなれなかった。

 結局の所、教育市場もビジネス市場もホビー市場も全てこれ1台でまかなおう、という欲張った発想が全てに不十分な仕様策定の原因となっていた様で、メインOSも独自のTOWNS OSからWindowsへと移行し、一時はUNIX系OSの搭載が囁かれるなど、富士通の経営戦略の不定見に振り回された不幸なマシンであった。

 また、Windows 3.1→Windows 95までは一応発売されたがFMRでは提供されたWindows NT3.51についてはこちらでは提供されず(FMR-50互換機ではあったが、DOSではBIOSによってコードベースのテキストVRAMをエミュレーションする仕様が祟ってFMR用Windows NTのブートローダが動作しなかった)、今となってはWindowsマシンとしても色々問題がある。

 但し、これが非常に素直な設計の386マシン、それもCD-ROMブータブルマシンであった為に日本におけるLinux普及の足がかりとして後年になって非常に重要な役割を果たした事は記憶に留めておくべきであろう。


53:アーキテクチャはFMRの中級機である50がベースであった(それ故TOWNSでは一太郎をはじめとするFMR 50対応MS-DOSアプリケーションの多くが動作する。但し注52-1でも記した通りグラフィックコントローラがいわゆるコードベースのテキストVRAMをサポートしておらず、BIOS等でエミュレーションしている為、どうしてもテキスト表示がもたつく傾向がある)が、CPUに関しては上位機種と肩を並べるスペックの物が初代から搭載されていた。

 その傾向はモデルチェンジに際しても継承され、TOWNSとして最上位機種に当たるFM TOWNS II HCでは遂にPentium(P54C)が搭載されてしまった。

 この時、同系の姉妹モデルとしてHA(486)とHB(P5)の2機種が用意されたのだが、実はこれらはメイン基板がHCと共通で、CPU+ノースブリッジ+メモリの中枢部分をライザーカード上に搭載してあった為、この部分の載せ換えで延命を計れる構造となっていた。

 これは本当に良く工夫された巧妙な設計(但しBIOSに難があって、条件によっては486系のHAに133MHz駆動のAm5x86-P75を載せた方がHBやHCより速い場合もあるらしい)で、今の目で見ても賞賛に値するだろう。

 もっとも、良く出来た設計とは裏腹の高コスト故にこのシリーズは伸び悩み、その反動があの粗悪なFM-V DESKPOWERによる大量ソフトバンドル&価格破壊を引き起こす事となったのであるが・・・。