MULTI 16に捧ぐ弔歌
三菱電機が1981年12月に発表した(但し、筆者の記憶する限り、実際の出荷開始は82年に入ってからだった様に思う)初代MULTI 16は、国産初の16bitパーソナルコンピュータである。
これは先行して発表された“IBM PC”と同様に内部バス16bitで外部バス8bitのIntel 8088(4.44MHz駆動)を搭載しており、完全な16bitアーキテクチャに基づくマシンとは言い難かったが、レジスタ長や命令セットレベルでは確かに16bit化されていて、メモリアドレスもあの忌々しいセグメント方式による指定が必要であったとは言え20bit、つまり1MBまでのアドレス空間にバンク切り替えなしにアクセス可能な設計となっていた。
少し硬い言い方になってしまったが、要するにこれは今あるPCの祖型とでも言うべきものが備わった最初の世代のマシンだった。
何しろ値段は気が遠くなる位高価だったが、純正オプションで5インチ固定ディスクユニット(MP-01FXU 容量9MB)さえもが82年の段階で既に用意されていたのだ。
これは、このマシンが従来のROM BASICマシンから脱却して(事実ROM BASICは搭載されていなかった)OSマシンを明瞭に指向していた事を示しており、その先取性だけでも充分評価に値しよう。
また、ハードウェアの形態はキーボードと本体が一体となった基部に2基ないしは1基のFDDとCRTが一体にまとめられた上部構造部品が載る、半一体型とでも言うべきデザインであり、この時期にして既に増設カードやコプロセッサの取り付けに工具類が必要無い様工夫されていた事は特筆しておくべきであろう。
只、不幸な点があったとすれば、それは開発時期の関係でこのシリーズがチョイスしたOSが、Digital Research社のCP/M-86及びコンカレントCP/M-86(CP/M-86のマルチタスクバージョン)とならざるを得なかった事であろうか。
そして、その選択こそがこのシリーズの命運を決してしまった。
当時の国産PCメーカーには、この不遇のOSを選択してしまった企業が富士通を始め何社かあったが、ROM BASIC(N88-BASIC(86))上に多数のアプリケーションを抱えていたが故にこのOSに入れ込む必要が無かった日本電気を唯一の例外として、そのいずれもがその後の独自規格ハード上でのスムースなMS-DOSへの移行に失敗しており、このMULTI 16を擁した三菱電機もその例外ではなかった。
ハードウェア発達史的な観点で言えば、この初代の後ドライブやキーボードを別に分け、本格的な16bitアーキテクチャCPUであるi8086-2を搭載し、640*450という他に見られない珍しいグラフィックモード(80桁*25行で行間を2ドットずつ確保する為と考えられる)を追加したMULTI 16・II、そのIIと筐体共通で初代と同じくi8088を搭載した廉価版のMULTI 16カスタム、IIの後継として5.25インチ2HD FDD(IIの時点で5.25インチは2Dから2HD対応ドライブに切り替わった)を本体内蔵に変更したMULTI 16・III、IIIの廉価版としてのi8088搭載モデルである(=初代と同一アーキテクチャの)MULTI 16・S、そして最後にIIIを基本に同社製PC/AT互換機と共用パーツの度合いを増やしてCPUをi80286に変更したMULTI 16・IVが発表されているのだが、結局の所PC-9800シリーズの厚い壁に阻まれて三菱グループの企業や一部の法人ユースを除けば殆ど普及せずに終わってしまい、次なるAXマシン“MAXY”に後を託してシリーズ打ち切りとなった。
ちなみに、MULTI 16・III(グリーンディスプレイモデル)は国鉄時代に新幹線の管理システムの一部として納入されていたらしく、山陽新幹線の各駅で稼働していた姿が目撃されている。
但し、三菱電機のサイトを見るとMULTI 16は全機種とも2000年問題非対応となっており、他機種へ乗り換える様指示される有様であるから、恐らく大半の法人ユーザーが既に廃却してしまったと考えられる。
CPU動作クロックが1GHzを超えてしまった、そして64bit CPUがゲームマシンに当たり前の様に搭載されてしまうこの時代に何を今更という気もするが、私にとって忘れ難い一つの記憶として、歴史の向こうへと旅立ってしまったこれらの懐かしきマシン達の事を記しておこう。
初代MULTI 16(MP-1601,1602,1605,1622,1625)
CPU:
i8088 4.44MHz / Intel
オプションとしてi8087浮動小数点演算コプロセッサを用意。
RAM:
64Kbit DRAM(サイクルタイム0.3μs) 128KB〜384KB
但しその内32KB(グリーンモデル)もしくは96KB(カラーモデル)をVRAMとして使用。
1MBのアドレス空間の上位に32KB単位でRGBを割り当て。
メモリ増設は64KBもしくは128KB単位(拡張カードとして提供)
グラフィック表示:
640*400 モノクロ(グリーンディスプレイ)もしくは8色カラー(デジタルRGBディスプレイ) 1画面
文字表示:
英数カナ使用時:80*20、80*25行
日本語使用時:40*20、40*25行
文字表示はいずれもグラフィック画面に直接描画。
文字種:
英数カナ:基本的にJIS配列準拠(但し一部拡張)
漢字:JIS第1/第2水準(コード体系はShift JIS)
漢字フォントはオプションの漢字ROMボードにてサポート。
もしくはCP/M-86側で第1水準フォントをディスクよりロードして使用。
拡張スロット:
独自規格拡張カード対応スロット*5
但し各モデルとも1本はFDDインターフェイスが占有しており、更にカラーモデルの場合は1本が64KBの拡張メモリカードに占有される。
なお、RS-232Cやセントロニクスインターフェイスはオプションである。
専用ディスプレイ:
独自規格コネクタによる13インチCRT
グリーンモデルもカラーモデルもサイズ・コネクタ等は共通。
添付ソフト:
スタンドアロンM-BASIC
ディスクフォーマットはCP/M-86と共通。
別売標準OS:
日本語CP/M-86 Ver.1.0 Rev.1.1
英語版CP/M-86としてはVer.1.0 Rev.1.2と認識される。
普及版として設計された、RAMが128KB、5.25インチ2Dドライブ1基搭載のグリーンディスプレイモデル。
グリーンCRTで搭載RAM容量が128KB、つまり実際にプログラム空間として使用可能なRAMは96KBでしかなかったが、当時は8bitパソコンでは普通の方法を用いる限り、64KB以上のRAMを一度に参照する事が出来なかった時代であり、標準的言語環境であったBASICインタプリタもその中で動作していた(つまりユーザーに使用可能なワークエリアは64KB-(BASICインタプリタ本体+変数管理領域)した小さな値でしかなかった)のに対して、このMULTI 16のM-BASICでは1セグメントを丸々ユーザーエリアに取る事が出来た(96-64=32KBだけ残された、もう一つのセグメントで充分BASIC本体を格納する事が可能であった)為、これはこれで随分衝撃的な仕様であった。
中位機として設計された、RAM 192KB、5.25インチ2Dドライブ2基搭載でCRTがグリーンディスプレイの機体。
プログラム空間として確保されたメモリ量が160KBである事から、CP/M-86を走らせるのに最低限必要な容量を搭載したモノクロモデルとして企画された(上位のMP-1605の場合、実装RAMは多いがVRAMに96KB取られるので、実質的なプログラムエリア容量はこの1602と同じである)と考えられる。
初代MULTI 16のラインナップ中、最上位のカラーCRT搭載モデル。
RAMは256KB搭載され、FDDも5.25インチ2Dドライブが2基搭載されていた。
上にも書いたが1605と1602の機能的相違は基本的にカラーであるかどうかの1点だけで、当然CRTもデジタルRGB対応管が搭載され、加えて拡張スロットに64KB専用メモリカードが当初より1枚搭載されている点が異なる。
ちなみにこのモデルに搭載されていたカラーCRTは相当高価だった様であるが、流石はフラグシップモデル用だけに一つのリファレンスたりうる非常に優れた品質であり、以後随分長い間これを凌駕する画質のCRTにお目にかかる事が無かった程の優れ物であった。
このMULTI 16シリーズのテキスト表示はグラフィック画面と共用のビットマップスクリーンに対して行われ、16*8もしくは16*16ドットのフォントを直接640*400のグラフィック画面に描くという、今のDOS/Vに近い画面構成であった。
今にして思えば、286以上のCPUの搭載が必須条件であったDOS/Vでさえ、CPUやグラフィック回路の性能が不十分であった当初はスクロールや文字表示で不満が聞かれたというのに、初代PC-9801よりも低速な8088搭載マシンであるMULTI 16でこれをやるというのは、幾らRAMが高価で適当なグラフィックコントローラが無かったにせよ、少々無謀が過ぎたのでは無かろうか?
これに加えて、この機種の場合今のPCに見られる様な高度なグラフィックコントローラは搭載されておらず、無数の汎用IC/LSIを組み合わせた、殆どディスクリートに近い構成のグラフィック回路が実装されていた為に描画は決して高速ではなく、実際アセンブラで直接VRAMエリアを叩くプログラムを書いてすら必要な描画速度が得られず、困った記憶がある。
また、OS側の文字表示時のスクロールを単純なハードウェアスクロール(16ドットないしは行間を含む20ドット分ずつメモリアドレスをシフト)に依存していた(この事から一応最低限のグラフィックコントローラが実装されていた事が判る)為、これを行うとグラフィック画面まで一緒にロールアップしてしまうので、これを避ける為にはスクロール範囲を限定する様IOポートを叩いて制御するなど、大変面倒な作業を強いられた。
私が最初に手にしたPCはこのMP-1605で、まともに漢字表示を行う為に128KBの増設メモリカード(MP-128ZM)が搭載され、専用プリンタであるMP-03PRJを接続する為にオプションのセントロニクスカード(MP-01CNI)が挿された状態で届けられた。
ちなみに、OSとして日本語CP/M-86 Ver.1.0 Rev.1.1(定価は確か5万円)がバンドルされており、よく判らない大部のマニュアルが何冊かと3枚のシステムディスクと1枚の国語辞書ディスク(そう、熟語変換が精一杯と最低限ではあったがカナ漢字変換が搭載されていたのだ)が添付されていた。
なお、このCP/M-86にはエディタ、アセンブラ、デバッガという対応アプリケーション開発に必要な3種の神器(リンカは有ったかどうか思い出せない。CP/M-86のシステム構成から考えて、確か無かった筈だ)やBASIC86(スタンドアロンM-BASICのCP/M-86版)といったツール類が収録されていたが、当然の様に実用的な付属アプリケーションは1つも無かった。
余談になるが、Excel出現以前にMicrosoftのDOS用表計算ソフトとして知られたMultiPlanは、本来このMULTI 16の為に三菱電機の依頼で開発されたものであり、それ故“Multi”という語が名に冠されていた。
今となっては信じ難いのだが、MP-1602のCRT内蔵(このMULTI 16のCRTは右側にFDDベイを備えていた)5.25インチ2Dドライブ2基を外して8インチFDD2基を縦置きで搭載したモデルである。
わざわざ5.25インチで出発しておきながら後から8インチドライブ搭載モデルが追加されたのは、法人ユーザーからの強い要求があった為と考えられる。
これは、当シリーズとオフコンやミニコンとの連携を考えると、当時標準の存在しなかった5.25インチディスクよりもIBM標準フォーマットという神聖不可侵(笑)の標準規格が存在した8インチの方が何かと便利であった為だった。
その意味では、この機種が出荷され始めた段階で既に当シリーズは「パーソナル」なコンピューターではなくなりつつあったのでは無かろうか?
ちなみに、このドライブ交換に伴って拡張スロットに挿されていたミニフロッピーディスク専用インターフェースカード(MP-01FDC)は外され、代わりにオプションとして用意されていた5インチウィンチェスタタイプHDD(!!)さえ接続可能なMP-01EXI拡張インターフェース(相当品)が8インチドライブのインターフェースカードとして挿されていた。
なお、MP-01FDCのFDDコントローラは富士通製チップが搭載されていた。
上のMP-1622と同様に、こちらはMP-1605の8インチバージョンである。とりあえずそれ以上の事は私も知らない。何しろ現物を拝んだ事さえ無いのだ。
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