岡軌3000型3005・3006・3007・3009・3010

撮影:1994年10月(車庫内の物は許可を得て撮影)



 1960年代後半の導入開始以来、岡軌7000型の投入された1980年まで10年以上に渡って主力車として活躍した形式である。

 元を正せば東武鉄道日光軌道線100形として1953年に宇都宮車輛で製造された車輌であり、姉妹形式に当たる連接車の200形と共に1968年2月25日の日光軌道線廃止まで同線の主力車として活躍した後、10輛揃って当線に譲渡された。

 東武鉄道日光軌道線は起点である国鉄日光駅前から終点の馬返までほとんど平坦区間無しに片勾配が続くという、路面電車としては我が国屈指の急勾配線であり、そこでの使用を前提として設計された当形式は、それ故に和製PCC車(注1)や、それに準じた高性能車が導入される以前の通常型2軸ボギー式路面電車としては異例の大出力(普通は37.5Kw(50HP)が相場)となる出力45Kw(60HP)の主電動機を各台車に一基ずつ一輛当たり2基装架している。

これは平坦線でどこにも勾配らしい勾配のない岡電にあってはあまり意味のない特徴(注2)であるが、当時の岡山電軌の買い付け担当者が何を考えて当形式の購入を決定したのかを明言する記録は残されていない。

 確かに、路面電車の廃止が全国で相次いでいた当時の情勢下にあってさえ、岡電でそのまま使える1067mm軌間の車輛となると途端にその数が少なくなった(注3)のは確かであるが、それにしても7000系に更新された旧呉市電の各車ともども、良くもこれだけ勾配線用車ばかり集めてきたものと感心せざるを得ない。

 当時我が国に存在した1067mm軌間の路面電車の内、第二次世界大戦後1960年代までにまともに新造車を建造出来たのは、札幌・秋田・仙台・福島・水戸・日光・富山・高岡・金沢・名古屋・岐阜・和歌山・呉・下関・松山・高知・大分の17都市の事業者であったが、この内ワンマン化や2軸単車のボギー車化等で中古車の需要が大きかった1960年代後半から1970年代初頭までの時期に路線廃止による程度の良い余剰車輛が発生したのは秋田・水戸・日光・金沢・名古屋・呉・下関・大分の8都市でしかなかった。

 このため、それら都市の路線廃止に伴う中古車は1067mm軌間で条件の合う事業者の大半(注4)が参加する過酷な争奪戦の対象となっていたのだが、急カーブ対策で細身に仕上げられていて扱いやすい車が多かった金沢の分は名鉄グループ内各社で山分けされたので出物無し、戦後製の大半が激烈に扱いの難しい和製PCC車(注5)やNSL車(注6)であった名古屋はほぼ論外(注7)、輛数と年式が揃っていた下関と大分は前者が車体幅が広く入線可能線区が限られ、後者は間接自動制御車でしかも一部は連接車に連結車で運転と保守の双方に難あり、といった具合に普通の事業者が普通に扱える中古となると殆ど無かったのが当時の状況であり、こうして見て来ると岡山電軌がこの時期に掻き集めた車輛の出身都市にある偏りの意味が浮かび上がってこよう。

 当形式の車体は、建造当時の流行の影響を受けて、俗に「湘南型」と呼ばれる前面二枚窓の半流線型となっている為に当時の流行を追ったものと考えてしまいがちだが、それ以外の点については驚く程コンベンショナル且つトラディショナルな様式で纏められており、むしろその意味では戦前の路面電車黄金期に建造された車輌達の正当なる継承者とでも呼ぶべき内容を持っている事は注目に値する。

 それはつまり軽量構造が流行する以前の伝統的で頑丈な車体構造設計手法に依っていたという事であり、結果的に後発の軽量構造車体を持つ車よりも余程長寿を保つ一因となった。

 また、流行を追ったかに見えるその「湘南型」フェイスにしても、日光軌道線と接続する東武日光線の建造当時の特急車である5700形がそうであったが故にデザイン的な連続性を持つ事を営業サイドから要請された(注8)為に渋々そうしたのだ、とも考えられる。

 当形式を製作した宇都宮車輛が同時期に製作した鉄道車輛(注9)を見渡してみるとこの「湘南型」フェイスを持った物が一つもない事や、長柱を用いた張り上げ屋根に代表される、当時の同社が多用した様式・工法の殆どが当形式の製作に当たって駆使されている事から考えても、この前面デザインはやはり営業サイドあたりからの要請と考えるのが妥当ではなかろうか。

 上記の通り、岡山近隣には当形式、片上鉄道(キハ310)、それに岡山臨港鉄道(キハ1003)と同時期建造の宇都宮車輌製鉄道車輌が集中していた事(注10)は偶然でも記録にとどめておくべきだろう。

 トップナンバーの3001号(譲渡順に機械的に付番した為、元番号では102号)が早い時期に自動車との接触事故で喪われてしまった(1973/09/30廃車)ため、9輛体制が長く続いたが、この撮影の時点では7900型新造に伴って4輛が既に代替廃車されており、表題の5輛と1輛分の住友金属製KS-40J(H2193)台車(恐らく3008号の物)が残存していた。


 (注1):アメリカの路面電車経営者が結成した、President's Conference Committeeという団体が大戦前に開発した、PCC車と呼ばれる画期的な高性能路面電車の技術をそのまま、或いはそのシステムの主要部を模倣・翻案して国内で設計・建造された車輛。東京・大阪・名古屋といった大都市を中心に見られたが、結局満足に使いこなす前に自動車に囲まれてしまい、比較的短期でその働き口を失ってしまっている。

 (注2):強いて言えば加速性能が良くなる事がメリットといえばメリットだが、消費電力が大きくなる事を考えると余り褒められた話ではない。

 (注3):70年代中頃までに事実上全廃に至った東京や大阪、それに神戸に名古屋といった大都市の路面電車は名古屋を除いてことごとく1435mm軌間や1372mm軌間で、その多くが広島や長崎に代表される地方の1435mm/1372mm軌間路面電車に二度目の奉公先を求めている。

 (注4):オリジナルの新車を導入していた和歌山や仙台でさえ、廃止が近付いた頃には中古車漁りに精を出していた。

 (注5):ハイポイドギア採用の直角カルダン駆動・超多段間接自動制御・弾性車輪・セルフラップ弁+ドラムブレーキと当時のハイテクを駆使されていたが、それ故にメンテナンス面で問題が多かった。

 (注6):ウォームギアを用いた乗り越しカルダンの超軽量車。軽すぎてポイントで脱線するなど問題が多く、失敗作であった。

 (注7):それでも戦前の傑作1400形を中心に通常仕様の車はそれなりの数が譲渡された。

 (注8):例えば、南海高野線の終点極楽橋から出ているケーブルカーには、同種の要請に従って歴代「こうや」号(同線の最優等列車)と同じ塗り分けが施されている。

 (注9):例えば、先年惜しくも廃止された片上鉄道のキハ311形や、元岡山臨港鉄道キハ1003号などが該当する。

 (注10):また、戦時中客車化されていた井笠鉄道ホジ7〜9のディーゼル動車としての復活工事も同社が担当した。


 東山車庫(南)に残存していたKS-40J台車。


 これはアメリカJ.G.Brill社が生んだ路面電車向けボギー台車の傑作、Brill 76Eの模倣品の一つで、大戦後の住友(扶桑)金属製路面電車向けベストセラー台車の一つでもあった。

 ちなみに、当形式や旧呉市交通局よりの譲渡車が装着しているのは同じKS-40Jでも比較的後期のモデルであり、オリジナルの76Eが複数に分割された鍛造の台車枠や各種部品をボルトを用いて組み立てていたのに対し、鋳鋼の一体成形品を多用する事で部品点数を大幅に削減した構造となっていた。

 それは、構造的に見て京都市交通局800形等の履いていた前期モデル(注11)よりはむしろ7000型の履く住友金属FS-70等の新型台車との方が共通点が多く感じられる設計であり、実際、そういった新世代台車と旧世代台車の識別点である揺れ枕部の構造を除けばこの後期型KS-40JとFS-70の間には構造的な相違は殆ど無く、これは来るべき新世代台車群への橋渡し的な役割を果たした事が見て取れる。

 上に掲げた写真でも明らかな通り、この台車は主電動機を台車外側(それも2台の台車のモーターが一番遠くなる第1軸と第4軸)に吊り掛け、駆動されない第2・3軸の直上にブレーキシリンダーを内装した構造となっている。

 一般的には、吊り掛け駆動式のボギー式路面電車用主電動機は内側の第2・3軸に掛けられる(注12)ものなのだが、この形式ではあえて第1軸と第4軸に主電動機が装架されている。

 これは全くの余談だが、一見同じように見えて区別し難いBrill 76Eと77Eの相違は主電動機の装架方法で、軸距を長くして電動機を軸間に収め、内掛けにしたのが77E、軸距を短くして両軸の外側に吊りかけたのが76Eとなっている。

 この主電動機装架位置は第1軸と第4軸の軸重を大きくする事でポイント通過時等の脱線発生率を下げる目的で決定されたものと考えられ、国内の同業他社を見回す限り、それなりに実績もある様だ。

 なお、旧秋田市交通局200に由来する7100のNS-14と旧呉市交通局700に由来する7300・7700のKS-40Jでは内寄りの第2・3軸に外掛けで吊り掛けてある。

 このあたりは各社の方針や線形によってまちまちであるが、急勾配で知られた呉市交通局があえて第2・3軸への装架を選択していた事には、車輪径が大径とされた事と合わせ興味が湧く。

 また、一般の路面電車用台車ではブレーキシリンダーは1基で車体装架が通例であった事を考えると、中継弁を介して各台車に1基ずつ直接装架されたこの形式の仕様はやはりほぼ全線に渡って片勾配が続き、故障等のトラブルの許されない線区での使用を前提にしたものであった(注13)事が伺えよう。

 この事は制御器にも現れており、当形式に搭載されていたTDK(東洋電機)製の直接制御器(DB1-LBK4)には電気制動を多用する可能性を考慮してか、ノッチの逆進時に主回路を一旦切り離す遮断機(注14)のスイッチが内蔵されていて、この機構の分だけコントローラ上面のトッププレートが飛び出していた。

 もっともこれは保守が面倒な為、特にこの種の機構を必要としない岡山電軌では後年になって順次取り外してしまっており、外観だけにその面影を留めていた。

 この時点での残存車の原車番は順に110,104,108,103,109で、110=3005が1968年、それ以外は1969年に譲受し、3005、3006、3007の3両は自社で、残りの2両は大阪車輌工業で集電装置の交換(ビューゲル→岡軌式パンタグラフ)や方向幕の移設大型化等といった改造工事の上で投入されている。

 ちなみに、時期がはっきりしないが当形式については老朽化か何かが原因で本来の巻き上げカーテンを撤去し、後から別の巻き上げカーテンを機構部ごと追加設置してこれに代える工事が実施されており、この関係で本来のカーテンレール以外にカーテンの留め具が柱部に取り付けられている。

 本来は連続急勾配線区であった日光軌道線用として建造された車輌だけに高回転・大出力の主電動機(東洋電機 TDK-532B 端子電圧600V時定格出力45Kw 定格回転数900rpm)を装架していて、加速時の重量感ある出足の鋭さが印象的であった。

 白熱灯・電動発電機(MG)・平軸受(後日、少なくとも現存する3005と3010の台車が、旧呉市交の一党が履くKS-40Jと同様にIKF製ローラーベアリング付きに改造されていた事が確認された。あるいは現存車は改造済みである事が理由で残されているのかも知れない)・鋳鋼製板バネ支持台車、そして重い鋳鉄グリッド抵抗(注15)と驚く程に古典的なハードウェアを満載したこの形式は、7000以降の新車の定数充足と非冷房である事も手伝ってここ数年殆ど稼働しておらず、それこそ動いただけでもTVニュースとなりかねない(注16)様な状況であるが、最終的に少なくとも1輛は動態保存する由である。


 この後、1995年7月に登場した岡軌7900型8501号への部品供給用に1輛(注17)が廃車解体され、2002年春には夏の岡軌9200型低床連接車投入に伴う余剰車の先行整理で3009が廃車されたが、こちらは幸いにも日光市の鉄道愛好家に無償で譲渡され、2002年5月13日に栃木に向け発送されている。

 また、残る3005・3007・3010については当面現役続行が確認されている。


 (注11):本来のBrill製オリジナルモデルの後期生産品に近い設計であった。

 (注12):そうすれば一部のマキシマムトラクション台車の様に、第1軸と第4軸の車輪直径を小さくして乗降口のローステップ化を実現する事さえ可能になる。

 (注13):つまり、京福電鉄福井支社で起きた様なブレーキロッド破断事故が走行中に片方の台車で起きても、もう一方が生きていれば何とか停車出来る

 (注14):Line Breaker:型番のLBK4の“LB”はこれに由来する。つまりこのモデルは遮断機周りを除けばDB1-K4と同等である。

 (注15):7000以降は軽いリボン抵抗に切り替えられた。

 (注16):実際、数年前に久々に営業運転した時には地元のTVニュースで話題として取り上げられた。その後はKUROへの改装や日光軌道線100形時代の旧塗装の再現など、様々なイベントが発生しており、非冷房のため運行が難しい夏期以外は稼働実績がある様だ。

 (注17):現車調査の結果、その時点で3005,3007,3009,3010が残存していたので解体されたのは3006=東武104号と確認。


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