いわゆる更新記録(靖間 誠PC日記兼用)
西暦2001年3月1日−3月31日分
西暦2001年3月1日 “RGBケーブル”
姫路駅ビル“FESTA”の改装が完了し、その三階1フロア殆ど全てを確保してジュンク堂書店が開店したと聞いたので、行ってみる。
・・・広過ぎて何が何やら(苦笑)。
都合で各マシンとモニタ/セレクタ間を結ぶRGBケーブルを一旦外して繋ぎなおしたら、何故かPC-9821Xv13W16の出す画が妙な状態になって悩む。
何やら黄色っぽくてひどくピントのぼけた画が出てくるのだ。
で、まさかRGBケーブル(ちなみにブツはNANAOのV30)が断線寸前なのだろうか? と思いつつ再度ケーブルを外して、正常に画が出たAT2号のケーブル(こちらはV55)と交換して繋ぎなおしてチェックしたのだが、こちらでもやはり異常が発生し、AT2号に繋いだV30はしごくまっとうな画を出して来た(汗)。
・・・つまり、ケーブルは原因ではない。
となると98本体(知っての通り、PCIのある98ではPCIグラフィックカードを挿した場合一旦本体にRGBが引き込まれて本体内蔵のリレースイッチで98固有グラフィック出力と切り替える)かグラフィックカードそのものが怪しいという話になる。
だが、本体は少なくともDOSでマトモな色が出ているから、一応正常動作していると考えられる訳で、よって消去法でPCIグラフィックカード周辺が怪しいという事になる。
このマシン、というかこのマシンに挿してあるPCIグラフィックカードは凶状持ちのWGP-FX16N(色々怪しげな改造とかしてある)で、これが何時壊れてもおかしくはない事は承知していたから、本当は当然そこから疑うべきなのだろうけど、このマシンは何しろ分解が面倒で、出来れば疑いたくなかったのだ(苦笑)。
無論、流石にここまで来るとカードを疑わない訳に行かないのだが、先日このマシンをバラしてWGP-FX16Nを抜き、AT3号に挿してみた際には、98本体の切り替えリレーを介さない事もあってひどく綺麗な画が出ていた事を思い出した。
・・・俺は何か大事な事を忘れていないか?
ふと、脳裏にそんな言葉が浮かんだので、ここで一時作業を中断し、怪しい箇所を再検討。
・・・98本体とグラフィックカードの間のRGBケーブルをチェックしとらんやん。
そういえばそんなモノもあった(苦笑)。
大慌てで件のケーブルを外し、U字型に曲がったそれをあれこれ捻り直してから再度(今度は逆の曲げ方で)取り付けてみたら、あっさり問題が解決してしまった。
どうやらストレスで断線しかかっていたらしい。
およそ夢想だにしなかったトラブルだが、こういう事が簡単に起こってしまうのでPCはあなどれない。
桑原桑原。
西暦2001年3月2日“投稿”
RSBC-MLでRSBC世界の鉄道が話題となったので何となく投稿。
皆さん意外と鉄道は詳しくない(まぁ、他の方の投稿を見る限りはシミュレーションゲーマーが主体みたいだから仕方ない)様なのだけど、ついヒートアップしていつもの調子で書いてしまう(爆死)。
8年程前に蓬莱学園(某大学同期で同様に中途退学したmolice君のサークル絡み)関係で「高架線計画」あるいは「宇津帆高速度急行電鉄建設計画」という「架空の島における架空の高規格電気鉄道建設計画」の原稿を書いていた/書かされていた頃もそうだったのだけど、前提条件をきっちり考察しない鉄道関係の仮想プランを見ると、どうしてもヒートアップしてしまう(苦笑)。
・・・だってねぇ、奴らは遊園地のお猿の電車の線路の上で本物のTGVを走らせる事が出来ると思っているんだよ(死)。
・・・あ、これは蓬莱で「地下鉄推進派」って言われてた連中のごく一部の事であって、今回のRSBC-ML参加者諸氏への悪口じゃないので念の為(苦笑)。
某中古屋でApple Vision 1710AVのMacintosh専用D-SUB二列15pinコネクタ付きモニタ直付けケーブルに繋ぐ、Mac専用D-SUB二列15pin→汎用D-SUB三列15pin変換アダプタ(それもリンゴのマークがモールドされている純正品!)をGet。
これでApple Vision 1710AVは初期のCPD-17系と同等で使える様になった(喜)。
どの位使えるか判らないのでアレだが、まずはめでたい。
西暦2001年3月3日“M君との邂逅”
色々あって、後輩のM君と会う。
で、彼の部屋に行って彼のマシンを色々いじる。
彼のマシンは、
CPU:Pentium III 800MHz(FC-PGA) / Intel
M/B:S1854 Trinity400 / TYAN
RAM:PC/133 CL=3(一部PC/125 CL=2)SDRAM 128MB*3=384MB
Graphic:SPECTRA 5400 Premium Edition + Video Port 600 / Canopus
Sound:Xwave6000(YMF-754) / Labway
SCSI:AHA-2940UW / Adaptec
LAN:Intel PRO/100+ / Intel
ATA:HotRod100 / ABIT
HDD:DTLA-307020 / IBM
CD-R:PX-R820Te / Plextor
(その他、ATAPIのDVD-ROMや、FDD、それにUSB接続のオーディオインターフェイスがあるが型番は忘れた)
といった何処かで見た様な感じのデバイス満載(笑)のマシンなのだが、実は彼には以前に、これ以外にもATA33/66→Ultra Wide SCSI変換アダプタとDDS-1ドライブを渡してあって、それらの取り付け方法を指導する(笑)のが今回の作業の主たる目標であった。
で、結局忌まわしいATA/100 RAIDカードを抜いて、それに繋いであったDTLA-307020を変換アダプタ経由でAHA-2940UWに接続する様に組み替えた訳だが、これを実施しただけで劇的にWindows2000のレスポンスが改善されてしまった(爆笑)。
・・・いやぁ、幾らバスマスタになったといっても、やっぱりATAインターフェイスはマシンに負担になっているのだねぇ(苦笑)。
何しろスペック上は性能低下になるはずのATA/100(100MB/s)→Ultra Wide SCSI(40MB/s)への切り替えで逆に軽くなった訳だから、流石のM君も驚いた様で、あれこれ説明を求められた。
これについては、SCSIとATAのHDDそのものがそれぞれのバス内でどういう挙動を示すかを説明した上で、PCIでのバスマスタがどういうものかを説明し、それぞれの挙動の違いがそれにどういう影響を与えるかを説明して済ませたのだが、果たしてそれで納得して貰えたかどうか(苦笑)。
まぁ、とりあえずSCSIとATAの間に、世間一般に流布されているベンチマークテストの値だけでは決して埋められない、本当に暗くて深い溝(笑)がある事は、恐るべき現実を突きつけたが故に非常に良く納得して貰えたようなので、今回はこれで良しとしておこう。
1型55号/2型13号の“今回のお言葉”は恐らく多くの人々には冗談の類として受け止められたものと思うが、実の所あれらの言葉に含まれる真意は非常に深い。
我々SCSI信者が高いお布施を支払うのは、決して伊達や体裁ではなく、ATAでは決して得られない真の快適性や即応性を求めるが故なのだから・・・。
M君の所で話していて、自前のインナーイヤーヘッドフォン(MDR-E888 / SONY)が砕けてしまっている事に気付く。
・・・流石にこれでは修理のしようが無い(苦笑)。
この手のインナーイヤーヘッドフォンは、酷使するといっぺんに小口径の振動板がヘタってしまう(前作のMDR-E484はダイアモンド粉末蒸着の振動板だったせいか、二年と保たなかったが、今回のE888のバイオセルロース振動板は、最後まで殆どヘタらなかった)傾向があるから、今回のこれは約四年保ったという事で、充分上出来と言える。
もちろん、今のこの時期に壊れられるのは、代品確保を考えると財政的にかなり痛い。
そうでなくとも、インナーイヤーではない、密閉型のK240DF(オーストリアのAKG社製。91年購入)がかなりくたびれてきているから、そっちの代替も考えねばならないのだ。
・・・壊れる時には雪崩の様に壊れるものなんだよなぁ、機械って(涙)。
西暦2001年3月4日“独立UHF局の苦悩”
昨晩深夜に何故かサンテレビで放映されていた“ガメラ 空中大決戦”の録画テープをHV-V700→PowerMacintosh→E57Tという経路で観る。
画像の品質自体は多少粗めだが、送り出し側の品質が良くない(何しろ低予算で知られたサンテレビだから、そもそも使い古しで色が褪せたフィルムを平気で放映している)割には意外と綺麗な画で観る事が出来た。
あるいはVTRの実力によるものかも知れないが、それはそれで結構な事だから、この結果には満足すべきだろう。
それにしても何故今ガメラ??
西暦2001年3月5日“片チャネル断線=モノラル”
ヘッドフォンが使えないのは非常に不便なので、やむなく母からインナーイヤーの古いモデル(MDR-E575/SONY)を借りてみる。
どうも何処かで見た覚えがあるなぁ、とか思いながら使ってみるが、何故か左チャネルの音が出ない(汗)。
・・・ああ、そういえばそうだった、このヘッドフォンは元来WM-DD9という昔のWalkmanの付属品で、酷使の結果左が鳴らなくなったから、って理由で母に払い下げた(モノラルのテレコにはそれで充分)ものだった(爆死)。
そりゃ鳴る訳無いわな(苦笑)。
これで、いよいよ、本気で新しい外出時用ヘッドフォンの購入を検討せねばならなくなってきた。
西暦2001年3月6日 “MDR-CD900ST”
先日遂に砕けてしまった(爆死)インナーイヤーヘッドフォンのMDR-E888の代わりに、ちょっと小さめの密閉型ヘッドフォンを一つ購入。
ブツはSONYのMDR-CD900ST。
最近何故かあちこちで見かけるようになった、業務用モニタだ。
結局の所、この手のヘッドフォンは万札出さないとロクなものにはならない、というのが個人的な感想としてあるのだけど、これは流石に業務用と言いはるだけの事はあって(苦笑)、造りがかなりしっかりしている。
まぁ、デザインとしては大方10年前の流行(笑)なのだけど、それを言ったらメインで使っているAKGのK240DFは発表が16年前の製品(爆笑)だから、これでも結構新しいデザイン感覚な訳だ。
で、肝心の性能だけど、インピーダンスが63Ωなので、600Ω(PhonesじゃなくてLineの値だよ・・・)のK240DFよりは余程ポータブル向けだ、という事になった。
正直、主観的な音質ではK240DFの方が余程好ましい(特性的には両方とも癖が無い部類に入るが、K240DFは音の厚みで明らかに勝る。無論、これはアンプ(L-550)のPhonesに繋いでP-2+D-2のCD再生で比較した時の結論だ)し、構造的にも頭に負担が少ないのだけれど、何しろK240DFはかなり嵩張るし、馬力のあるヘッドフォンアンプ直結専用(笑)なので、サブ兼ポータブル用途ではこれでOKとしておこう。
本当は、そろそろ老朽化が著しくなってきたK240DFの置き換えも視野に入れていたのだけど、流石にそれは叶わなかった(苦笑)。
・・・やはりメインには新しいK240DFをもう一つ買って置き換えるしかないのかなぁ(溜息)。
MDR-CD900STのコネクタを交換。
やはり標準ステレオプラグはポータブル機ではかなり不便という事で、とりあえずK240DFとコネクタを交換。
実はK240DFは大昔に標準ステレオプラグを4pinのBTSコネクタ(差し込んだ後、ネジ付きのリングで結合固定するタイプのコネクタ)に交換して、4pinBTS − ステレオミニプラグ変換ケーブルとセットで使うようにしてあった。
これは、K240DFのケーブルがL/Rそれぞれに専用のGNDが割り当てられた4線接続であった為に行った加工だったのだが、今回MDR-CD900STのコネクタを外してみて、驚くべき事実が発覚した。
・・・このヘッドフォンのケーブルは、L/RのGNDを共用する、3線接続だったのだ(核爆)。
なるほど、道理でチャンネルセパレーションが今ひとつだった訳だ。
いずれは適当な4線もの高音質ケーブルに交換したいところであるが、予算が無い事でもあるし、取りあえず今回はコネクタ交換だけで済ませる事にした。
・・・それにしても、どうしてこんな大事な部分で手を抜くかねぇ?>SONY
西暦2001年3月7日 “相性”
純然たるウォークマンであるWMD-DT1ではやはり馬力不足という事で、代わりにテレコであるTCD-D7を持って出掛ける。
電池消費が半端ではないが、WMD-DT1の端子が最近接触不良気味であった事や、ヘッドフォンアンプの性能差を考えるとやはりこれが正解であろう。
さて、TCD-D7+MDR-CD900STの音だが、ヘッドフォンアンプの出力差やDACの性能差などもあってか、格段に分厚い音が出て来た。
昔のTCD-D7のカタログでは、推奨ヘッドフォンにMDR-CD900(MDR-CD900STの原型機)が挙げてあったのだが、それが決して伊達ではなかった事を痛感した。
・・・なるほど確かに、非常に相性が良い。
こりゃ、その内TCD-D7用にバッテリーを用意する必要があるなぁ(苦笑)。
というか、このD7じゃなくて、昔持っていたTCD-D3(初代DAT Walkmanを名乗る録再機。電力を馬鹿食いする18bit マルチビットDACを積んでいたので、音はD7以上だったが電池寿命は1/3、重さは約二倍という、極端な代物)に繋いで聴いてみたかった感じの音だなぁ、これ。
後輩のTSUNEKU君のサイトとリンク。
・・・しかし、そんなに良い電車かなぁ? 223系1000番台って。
無論、かなり素晴らしい事は認めるに吝かではない(少なくとも、オリジナルの115系などと同じカテゴリの電車であるというのが信じられない。まぁ、それを言えばJR東日本のE231系やE217系でさえも同じカテゴリであるというのもまるで信じられない(苦笑))が、毎日乗っているとこの電車、実はアラだらけ(笑)なのがやたらと目に付くので、これで充分とも思えないのだが・・・。
西暦2001年3月8日 “カウンター”
K240DFとMDR-CD900STのケーブルを交換しようとしたが、両者を分解し、良く良く検討してから断念。
MDR-CD900STの方はOKだが、K240DFの方がNGだったのだ。
やはり拙速はいけない(笑)。
昨日RSBC-MLに投稿した内容にかなり致命的なミスがあった事に気付く。
いかんいかん、これじゃ他人の事は言えない(苦笑)。
そんな訳で慌てて訂正。
基本的に鉄分(笑)の少ない人々にはどうでも良い様な話だけに、反応は殆ど無いが、一連の投稿を行う様になってからこのサイトのカウンターの増加率が普段以上になった事からすると、多少は手応えがあったのかも知れない。
無論、ここのコンテンツ内容とRSBC-MLへの投稿とは殆ど関連性がないから、ここの鉄道系ページを隈無く読んでも特に参考になるような事は書いていなかったと思うが・・・。
西暦2001年3月9日 “ステレオミニプラグの品質”
MDR-CD900STに繋いだ、4pinBTS−ステレオミニプラグ変換ケーブルを交換。
AudioTechnicaのそれなりに上質なステレオミニプラグ−ステレオミニプラグケーブルを途中で切断して、そこに4pinBTSコネクタを取り付けたのだが、結果は上々で、大幅に音が良くなった(喜)。
やはりケーブル/コネクタが音質に与える影響が大きいのだ、と改めて実感した。
無論、これによって見栄えが良くなった事も重要(笑)なのだが・・・。
西暦2001年3月10日 “ドライバ”
AT2号に挿しているXwave6000(YMF-754搭載)のMPU-401互換MIDI I/Oが、Windows 2000上では使えない事に今頃気付く。
正しく表現すると、YAMAHAが提供している各チップ共通のユニファイド版WDMドライバ(WDM2228)では全く動作していない。
事実上最新バージョンであるが、何故かウチのマシンだとWindows 2000のシャットダウン途中で固まってしまうWDM2234(こちらはLabwayのサイトからDL)では、使えていたから、恐らくインストール時に用いる.infファイルの設定がそれぞれ異なっているのが原因と考えられるが、読んでもよく判らない部分があって悩んでいる。
で、窮余の策として、AV511を追加して挿して、そちらのMPU-401互換インターフェイスを使おうとしたのだが、こちらは検出されてもドライバインストールに失敗したり、インストールに成功してもそもそも動作しなかったり、と謎の挙動を示したので、いよいよ悩みが深まるばかりである(爆死)。
・・・本当にどうしよう?
この、カードの追加作業中に、ふとした弾みで、外部SPDIF I/O端子の無いXwave6000でこれらの内部端子を外に引き出して使える様にする為のスマートな解決策を思い付く。
「ステレオミニプラグ−4pin フラットSPDIFコネクタ変換ケーブル(但し長さはそれなりに長くする必要がある)を加工して作って、VideoPort600の使っていないアナログオーディオIn(内部ではステレオミニジャック)と、Xwave6000のSPDIF I/O用4pinヘッダとを繋げば、VideoPortのAudio InのLとRでSPDIFのInとOutを綺麗に繋ぐ事が出来るやん」
無論、VideoPort600/600Aを持っている事が必須条件で、しかも本来インピーダンスの異なるオーディオ用端子(600Ω前後)に75Ωの同軸SPDIF信号を流す(それもGND共用で!)訳だから、正直余り誉められた手ではないが、VideoPort600のオーディオIn周りはCanopusにしては気の抜けた造りだから、多分特に問題にはならないだろう(苦笑)。
そこで、善は急げという事で、早速変換ケーブルを作ってみる。
が、絶縁対策としてエポキシ接着剤を使ったので、硬化時間の関係からその場で試せなくなり、仕方なく就寝。
以後は明日のお楽しみと相成った。
西暦2001年3月11日 “SPDIFの精度”
昨晩作った4pin SPDIF I/O − ステレオミニプラグ接続ケーブルを実際に取り付けてみる。
・・・正常に動作した(喜)。
これで、これまでXwave6000のSPDIF Outを繋いでいた筐体のRCAコネクタ(過去に自分で加工して取り付けた)− 2pin フラットコネクタ接続ケーブルを、バックパネルにSPDIF同軸Outは付いているがInは何故か付いていないAV511のカード上SPDIF Inピン端子に接続してみる。
この作業を行っている途中に、このAV511の同軸SPDIF Outから出力されるデジタル音声信号が、あのシビアなEsoteric D-2のSPDIF Inに、それも負荷の小さいWinampを使うときにだけ、それも曲の途中から(爆死)、正しく同期し、受け取られる事が判明。
・・・何じゃそりゃ。
あるいは、CPUパワーさえ充分ならば、頭から正しく鳴るのかも知れないが、見たところどうもそれだけでも無い様だ。
まぁ、この辺はドライバの出来に依存する部分も結構あるので、その辺についても考慮する必要があろう。
何にせよ、鳴るにしても途中から、というのでは全く鳴らないよりもまだタチが悪い(苦笑)。
ちなみに、XwaveのSPDIF OutをAV511のSPDIF Inに繋いで、AV511側のミキサー設定でSPDIF OutにSPDIF Inで受け取った信号をそのままスルー出力する設定にしたら、当然の様に正しく鳴ったから、安物という事で結構軽視されているCMI8738チップのSPDIF In/Out周辺回路の作り自体は実はかなり良く出来ているのではないかと思われる。
西暦2001年3月12日 “BungeeJump”
人生はバンジージャンプである事を悟る(謎)。
飛び降りる覚悟はあるか、そして飛び降りる前に命綱の用意とその確認は出来ているか。
その2つこそが成功を導く鍵なのだ。
いやはや全く何とした事か。桑原桑原。
西暦2001年3月13日 “S-YXG50”
ここ暫く頭を悩ませていたYMF-754/744用ドライバ問題だが、これの究明作業中にS-YXG50のNT版が知らない間にWindows2000に対応していた事を某掲示板で見かけて、早速ファイルの公開されているASUSのサイトからDL。
S-YXG50のNT版はXwave6000に添付されていたCD-ROMに収録されていて、しかもレジストコードも(当然)添付されていたから、このソフトを使う権利自体はあると考えて良いと思うが、何しろ本来はASUS製品の為のDLサービスなので、ちょっと良心が疼く。
結構大きなファイルを苦労してDLしてから、早速インストール。
インストール自体は特に問題もなく完了したが、再起動後MIDIのプロパティを確認してみたら、使える様になっている筈のS-YXG50のソフトウェアシンセが使える様にならず、かなり悩む。
・・・これは一体どうした事だ?
西暦2001年3月14日 “DirectXの呪い”
昨日発生した、S-YXG50(NT4.0/2000版)が対応OSであるWindows 2000で動かなかった問題の原因が漸く判明。
原因は、先日Windows 2000環境にインストールしておいたDirectX8で、DirectX7に対応して書かれたS-YXG50のシンセエンジン(DirectSound対応)が、DirectX8で行われたDirectSoundとDirectMusicの統合による関数廃止で動作出来なくなってしまった為らしく、DirectX7のままに留め置かれている(というか公式にはDirectX8はインストール出来ない)PC-98の方ではあっさり正常動作してしまった(爆死)。
つまり、このバージョンのS-YXG50を使用する為にはDirectX7に戻す必要があるのだが、Windows98ならともかくWindows2000の場合、Windows2000の再インストール以外には事実上それを実現する術がない(爆死)。
さて、これからどうしたものかしらねぇ・・・(溜息)。
西暦2001年3月15日 “Photograph”
リチャード・パワーズの“舞踏会へ向かう三人の農夫”(柴田元幸 訳/みすず書房)を今頃購入。
約一年前の本だが、予算の都合その他で何となく買い逃していたものだ。
・・・うむ、やはり柴田元幸が訳を担当した本はハズれが少ないな(笑)。
その昔、京都で予備校生をしていた頃に読んだ、“超哲学者マンソンジュ氏”(マルカム・ブラドベリ/1991 平凡社)や、北九州で仮面浪人をしていた頃や、岡山で大学生をしていた頃に悪友のmolice君に勧められて読んだ“バーナム博物館”(スティーブン・ミルハウザー/1992 福武書店)、あるいは“最後の物たちの国で”(ポ−ル・オースター/1994 白水社)あたりで翻訳家としての柴田元幸という人の原書選定眼の良さに感動して以来、この人の仕事は大体チェックしていたのだが、今回のこれもやはり期待にそぐわず、かなり面白く読める。
ハヤカワ文庫SFが事実上壊滅(何でこんな物を? とか、何ちゅうひどい訳じゃ、などと私如きに思わせてはいけない(笑))な昨今、翻訳物はこういう現代欧米文学作品が凄く刺激的だ。
西暦2001年3月16日 “OVERTAKE”
久々にDOS/V Magazineを購入。
グラフィックカード関係の記事が結構面白かった為だが、ネスケの6.01を回線で落とすのがかったるかっただけだ、という話もある(苦笑)。
帰宅後、ZOOMのサイトから、68用ゲームをDL。
結局030の実機では動かなかったGenocide、molice君にトラウマを残した曰く付きの“Lagoon”、私にとって初めて買った市販パソコンソフト三本(X68030購入時にこれと、XC 2.11、それから、プレミアムエディションと銘打たれていた、030では何故か音痴になる某18禁学園もの(笑)を同時に買った)の一本である“Phalanx”、それにこちらはパッチを入手したので030で動いた“Genocide 2”。
いずれも北九州時代から岡山時代の前半にかけて狂った様にプレイしたゲームだけに、今回の無償公開は物凄く嬉しいし、また懐かしい。
ちなみに今回の無償公開では、曰く付きのFIA公認ラスター3Dレーシングゲームである“OVER TAKE”が抜けているが、これは別に出し渋った訳じゃなくて、FIA/フジテレビとの契約等の制約があった為で、恐らく今後ともあのゲームが公開される事は、それこそ当該作品に関わる肖像権や著作権等が消滅する遠い未来(爆死)まで、まずあるまい。
従って、あの愉快な“V12エンジン搭載NEKO”が走るデモは、あのソフトを持つものだけの密かな楽しみという事になってしまった訳だ。
評価の分かれるゲーム本体はともかく(苦笑)、あの辺りの出来は物凄く良かっただけにかなり惜しい気がするが、悪名高いマFIAと不治テレビが相手じゃ仕方が無い、といった所か(合掌)。
西暦2001年3月17日 “Single Decker”
某中古屋でASUSTekのP/I-XP55T2P4が格安で売られていたので何となくゲット。
以前持っていたGA-586HXのライバルと目されていたP/I-P55T2P4のATX版モデルで、初期のATXものだけに背面端子がいわゆるシングルデッカーな事と、同時期のASUS製マザボ特有のASUS Media Bus 2.0がPCI/ISA共有スロットに搭載されているのが目を引く以外は特におかしな所もない、至って平凡な430HXマザーである。
ちなみにRev.1.3で、CPUコア電圧は単一電圧、オンボードUSBは無効、という初期仕様なので、そこそこ使える様にするだけでもかなりの苦労を強いられそうな感じだが、電圧変換下駄は一応手元に一つあるし、USBも特に使わないと思うので、取りあえずはこれでOKだろう。
何にせよ、今時のモノでない事は確かなのだが(苦笑)。
西暦2001年3月18日 “System Configuration”
マシンの組み替えを実施。
MacからCheetah 4LPをAT2号機に移し、代わりにAT2号機のFireball ST2.1SをMacに回した。
一応、容量と速度の最適化を図ったのだが、果たしてこれで良いものかどうか。
ついでに、先日M君宅から回収してきた派手な異音のするViking II 9.1をP/I-XP55T2P4を使って組むつもりでいる(仮称)AT4号機に回す事にする。
それから、同じくストック品のPentium 133MHz(SY022)、Millenium 4MB(MIL/4/DELL3)、AT2号機から何となく外していた24倍速のPIONEER製Ultra SCSI CD-ROMドライブ、ついでに最近余り使っていないPC-9821Xv13/W16から外した60ns ECC-EDO SIMM 16MB*2=32MBも。
実はXv13に512KBのCOASt L2C(L3C)モジュールを挿した関係で余っている256KBのCOASt L2Cモジュールも使えそうなのだが、これについては多少不安点があるので現状保留としている。
・・・何やら後2万も出せば、そこそこ動くマシン(少なくとも、先日後輩のU.Y.嬢に売却したAT1号機程度のスペック(まぁ、あっちは渡したマシン+HDDがDNESなのでその辺で勝負が付いてしまうが)ならそれ位出せば何とかなる)が組めてしまいそうだ(苦笑)。
・・・こう考えてみると、部品代に占めるWindowsの値段の割合が実は物凄く大きい事に気付く。
競争がないという事がどういう事であるかは、これを見れば一目瞭然だろうに。
西暦2001年3月19日 “REWINDER”
(仮称)AT4号機“REWINDER”用にASUSのMedia Bus 2.0対応Ultra Wide SCSI/サウンド複合カードであるPCI-AS2940UWを中古で購入。
何しろ見かけが見かけなので(苦笑)、流石の祖父地図も強気の商売は出来なかった様で、Adaptec純正のAHA-2940UWよりは結構安価なプライスタグが付いていた。
無論、P/I-XP55T2P4に対応スロットがあるから買う気になった様な代物ではあるが、そちらの方のコネクタ周りの配線を眺めて、多分只のPCIスロットに挿しても只のPCI Ultra Wide SCSIカードとして動作するものと当たりがつけられたので買った、という側面もある。
当然の事ながら、そんな使い方についてはASUSのサイトにあったマニュアルを眺めても、それからあちこちのサイトで公開されていた紹介記事の類を捜して読んでも書いてはいなかったから、その期待が裏切られる可能性も充分あって、これはこれで結構リスキーな買い物ではあった(苦笑)。
帰宅後、早速マシンに挿してチェックしてみる。
まずはP/I-XP55T2P4のメディアバススロットではなく、通常の32bit 33MHz PCIスロットに挿してみたのは言うまでもない(笑)。
で、肝心の結論だが、当初の予測通り只のPCIに挿せば只のUltra Wide SCSIカードとして動作する。
T2P4だけではなく、念の為にチェックしてみた、チップセットやボードメーカーもまるで違うPIIIDMEやS1837UANG Thunderboltの32bitPCIスロットでも正しく動作したので、この点に関してはまず間違いあるまい。
少なくとも、この点さえ確認出来れば、このカードに出した約5,000円には価値があった事にはなる。
まぁ、BIOS ROMがいわゆるDIPパッケージの古いタイプで書き換え不可の様なので、AHA-2940UWコンパチという訳には行かないが、それでもAIC-7880搭載のPCI Ultra Wide SCSIカードというだけでも充分利用価値はある。
問題は、使わないサウンド部分の基板サイズが意外と大きくてマシンに挿す時に邪魔な事位なものだろうか。
これで(仮称)AT4号機は、CPU:Pentium 133MHz(SY022)、RAM:60ns ECC-EDO SIMM 16MB*2=32MB、HDD:M1606 1GB FastSCSI、CD-ROM:DR-u24x(x24 Ultra SCSI)、Mother Board:P/I-XP55T2P4+256KB COASt Cache Module、Graphic:Millenium 4MB(MIL/4/DELL3)、それからUltra Wide SCSI/Sound:PCI-AS2940UWという構成になった。
後はFDDと電源、マウス、それからキーボードを用意すれば起動可能となる訳だが、さてどうしたものか。
まぁ、本当に重要な問題は、そもそもこんな低スペックなマシンを今頃組んでどうするのだ? という事だという話もあるが(苦笑)。
まさかOS/2マシンやBeOSマシンって訳にも行かないだろうしなぁ・・・。
西暦2001年3月20日 “時代の匂い”
新大阪駅で683系(これだけ書くと懐かしの近鉄京都線予備特急車みたいだ)第一編成を目撃。
写真では良く判らなかったが、こうして実物を眺めると実は681系とは構造的にかなり違う事が良く判る。
台車(223系1000番台→000/3000番台の変化に準じた枕バネ支持位置の引き下げ)に側窓構造(窓柱を一段奥に引き込ませてガラス窓を連続させていた、バブル期ならではの贅沢な連窓構造から、不況期の車輛に相応しい、剛性確保と建造コストで有利な通常の質実剛健な窓構造へ)と、外観は極力似せてあるが、その本質においては皆目異なる事は明白で、いずれ681系の方もある程度スペックに関わる部分で足並みを揃える改修を実施するか、さもなくば足手まといになる681系の別の列車への転用による683系限定化(当然その場合には683系の増備が必要になる)による、“サンダーバード”の160km/h運用開始があり得るのではないか、などと思った。
姫路に戻って、フェスタ3階のジュンク堂で鉄道ジャーナルの今月号を購入。
危うく買い逃してしまう所であった(苦笑)。
(仮称)AT互換機4号を仮組みしてみる。
取りあえず、マウスはPC-98に挿してあったIntelliMouse、キーボードはIBM 5576-002、FDDは2号機から一時召し上げ(2号機はWindows 2000で使う限りはFDD無しでも取りあえずは問題なく使える)、そして電源はストック品のATX 250W品とした。
何やらマザーボードといい、グラフィックカードといい、全体的に1995年〜1996年頃のスペックだが、まぁ、こんなものだろう。
西暦2001年3月21日 “Power of Pentium(P54CS)”
(仮称)AT4号機に動作チェック用にWindowsをインストールしてみる。
・・・恐ろしくのろい(絶句)。
CPUも、メモリも、それからHDDも揃って非力な為なのだから、当然といえば当然の事なのだが、良く考えてみると95年〜96年頃はこれでも充分速いPCの範疇に入れて貰えていた訳で、あの時代から今に至る間のハードウェアの進化のすさまじさを痛感した。
もっとも、それでもグラフィックだけは以後3年近くに渡って最強の座を占め続けたMilleniumを挿してあるから、GDI描画だけはそれなり以上の速度が出ている(寧ろグラフィックチップ側がCPUの処理を待っている節さえ感じられる)のは幸いではある。
流石に、こうなってくると1GBのM1606が1台だけでは足りないので、AT2号に繋いでいたFireball ST2.1Sを(仮称)4号に転用。
このドライブには色々MPEG 1のムービーデータやMP3の曲データを仕込んでから繋ぎかえたのだが、多少コマ落ちの出たムービーはまぁ当然としても、これだけ非力なマシンでMP3のリアルタイムデコードが出来る事には流石に驚いた。
PCI-AS2940UWのサウンド部分の音質は出来の悪いラジカセ並だと思ったが、ノイズの方は意外な程小さかった。
基板上の露骨なまでのGNDパターン引き回しによるノイズ混入防止策や、ISA/PCIの電気的な分離は伊達ではなかったといった所か。
P/I-XP55T2P4のBIOSをRev.1.05から2.07へ書き換え。
それまではWindowsのシャットダウンで電源が正しく落ちなかったのだが、書き換えで正常に落ちる様になった。
・・・この辺を一切いじっていなかったという事は、前所有者は一体どの様な使い方をしていたのだろうか?
ふと、そんな事を思った。
AT2号機上でのFireball ST2.1Sへのファイル転送中に突如システムダウン。
どうやらSCSIケーブルをNarrow/Wide変換等の関係で極端に長くしていた事が原因であるらしい。
そこで仕方なくREX-PCI32をMacから外し、BIOSをInitio純正のRev.1.14に書き換えてAT2号機に挿し、50ピンデバイス4台はそちらに繋ぎ換え、68ピンのCheetah 4LPは39160のCh.Bに繋いだままとする事にした。
なお、Ch.AにCheetah 4LPを繋ぎ換えないのは、このドライブがハイボルテージシングルエンドタイプのデバイスである為、これをCh.Aに繋ぐと、折角のCheetah X15がその真価を発揮できない(Ultra 160 SCSIからUltra Wide SCSIに自動的に切り替わってしまう)からだ。
多分これでトラブルは出なくなる筈だが、何とも面倒な話だ。
西暦2001年3月22日 “竣工”
1型59号及び2型17号、竣工。
主な変更点は、“SCSI雑感”にDICEON 1A? / Digital EquipmentとPCI-AS2940UW / ASUSTekを、“PC/AT互換マザーボードとの邂逅”にP/I-XP55T2P4 / ASUSTekをそれぞれ追加、“鉄道を巡る狂おしき感情”の井原鉄道IRT355の印象の修正、リンクに"TSUNEKU"のホームページを追加、など。
その他にも幾つか直した様な記憶があるが、具体的な修正個所は忘れてしまった(苦笑)。
今回のお言葉は御覧の通り、ZOOMのサイトにおける同社製X68000用ゲームソフトの無償公開開始記念と、その実現に大きな役割を果たしたmolice君が彼のサイトで公開中の“特集:ムーンブレイドを求めて(前編)”の後編をとっとと書き上げる事を祈念して(笑)、彼にとっては因縁の一品である同社のイー、もとい“Lagoon”に添付されていたユーザーズマニュアルより。
・・・断っておくが、ゲームそのものはこういうノリではないので念の為(苦笑)。
ちなみに、このマニュアルもゲーム本体同様に公開されているので、興味のある/この言葉で興味を持たれた方は是非PDF化(これはmolice君が苦労して修復した労作だが、それ故ファイルサイズは非常に大きい)された、これらのマニュアルをダウンロードして御覧になられる事をお勧めしておく。
西暦2001年3月23日 “新刊”
森岡浩之の“星界の戦旗III −家族の食卓−”と赤城毅の“滅びの星の王子 ノルマルク戦史1”を購入。
前者は随分久々のシリーズ最新刊(苦笑)。
・・・ちょっと弱いか?
後者は、本編より毎回あるあとがきの著者vs編集の野バナシさんの虚々実々のやりとりの方が楽しみ(爆死)な、赤城毅の最新シリーズ第1弾。
先日出た彼と田中芳樹の対談本でも触れられていたものだが、なかなか面白かった。
只、読んでいる最中に「ああ、これはやはりアレかな、こっちはソレかな?」といった調子で無意識に元ネタ探しをやっている自分に気付いて自己嫌悪に陥った。
取りあえずはそういう面のある作品という事で(苦笑)。
西暦2001年3月24日 “腎結石と地震”
早朝、右腰部の痛みで目覚める。
前回似た様なシチュエーションに陥った時は腰痛か何かかと思ってあれこれ体を動かしていたら何とかなったので、今回もそうだろうと判断して体を動かしていたら、かえって痛みが倍加してしまった(爆死)。
おまけに、症状を考えるに、これはどうも筋肉痛の類の痛みではなく、もっと体の奥底から来る痛み、そう、位置から考えて腎臓か何かの痛みではないかと思われる様になって来た(大汗)。
で、起きてきた父に訳を話して父の行きつけの泌尿器科(後で訊けば父の知人の医師が勤務しておられる由)に連れて行って貰ったのだが、道中次第に増して行く激痛故に、車中で煩悶を繰り返す。
信号待ちがこんなに長く感じられるものとは思ってもみなかった事であった(死)。
端から見るとさぞや奇怪だったと思うが、当人は生き地獄を味わった気分であった。
そんなこんなで地獄のドライブが終わり、病院到着。
結構待たされて(待合いの廊下でもだえ苦しんだ)から、まず鎮痛剤を打って貰い、しかるべき後に多少痛みがひいてから1回目のレントゲンを撮って貰う。
そして、再度待合いにへたり込んで待って(その間、痛みは等比級数的に増大して極大に達し、立てなくなっていた)から、造影剤を静脈注射して2度目のレントゲン撮影。
それが終わる時に看護婦さんから「11時18分頃までお待ち下さい」と言われ、半ば朦朧状態(この辺りからやっとの事で薬が効き始めていた)でああそうですかと返事してから、しばらく考えて時計を見ると10時30分。
・・・50分近くこの痛みと共に待てというのか。
で、殆ど気絶状態で50分待って、漸く3度目の撮影。
どうやら、腎結石の移動状況を捉える為に時間をおいたらしい、と多少痛みの緩くなってきた体で考えた頃、撮影が終わり、やっと先生の診断。
ご託宣は「ああ、直径5mm程度の石が出来ているね。それが腎臓から尿道管を降りている最中に詰まって、その上の尿道管が膨らんでいたのが激痛の原因だよ。何、心配は要らない、もう石は膀胱に降りているから、後は小さいから大した事ないし、ともかく時間をかけて出てくるのを待つより他無いね」との事であった。
何しろ、レントゲンにもぼんやりとしか写らない位だから、とも先生は仰ったが、痛いものは痛い。
で、その事を訴えたら、この位痛い内に入るか、と一喝されてしまった(爆死)。
この程度の小さな石でさえ、この痛みである事を考えると、それ以上の痛みというのがどんなものか正直想像が付かない。というか想像したくない(汗)。
それ故、いや、まぁ、そりゃそうでしょうけど、やはり痛いものは痛いですと言ったら、無論、1週間後にはここに来て貰う必要はあるし、途中で悪くなったらすぐにでも来て貰う必要はある、と付け加えられて診察は終わった。
まぁ、即座に痛みを消せるものでないことは理屈では理解しているのだが、何しろ痛みのお陰で頭が上手く働かないので、どうにもならない。
それから毎食後服用の鎮痛剤と、更に強力な緊急鎮痛用の座薬を貰って病院を後にした。
まぁ、父が若い頃に経験した様な小豆大の大きな石*2とかでなかったのは不幸中の幸いであったが、朝からとんだ災難であった。
今日は本来休日であったのだが、こんな状態だったので、家で1日おとなしく過ごす事になった。
で、正直こんな状態で動き回りたくないから、これ幸いとばかりに溜まりに溜まった日記打ち込みの作業を行っていたのだが、そんな中、今度は地震が我が家を襲った(爆)。
・・・俺が一体何をした(号泣)?
何もかも放り出したまま、急いで屋外へ。
揺れの方はあの阪神大震災を思えば大した事はなかったが、それでも長引いたのが気味悪かった。
揺れが収まったので、家に入り、急いでTVの電源を入れる。
震度3? まぁ、そんなところだろう。
気になったのは、地図上に示された震度から、震源が広島、それも呉の沖合あたりと推測された事で、今治のW.T.先輩の顔がふと脳裏をよぎった。
が、こういう時に関係者に電話をかけるのは回線の負荷を考えると迷惑でしかないので、それはやめておいたが、岡山の知り合い連中や、北九州の葉隠氏もさぞや驚いた事だろうな、などと思った。
それにしても何という一日であろうか。
厄日というのはこういう日の事を言うのだろう、多分。
いやはや踏んだり蹴ったりの一日であった。
西暦2001年3月25日 “雨”
今朝も、右腰部の鈍い痛みで目覚めた。
蕭々と雨の降りしきる音が屋根越しに聞こえる。
嫌な朝だ。
どうも就寝中、膀胱に溜まった尿の重みで、結石によって傷つけられた尿管が痛むらしい。
一体何時までこんな状況が続くのだろうか?
ふと、そんな事を思った。
今治のW.T.先輩からメールが届く。
被害無しとはしないが一応、ご無事との由。
余震が続くだけに今後が気がかりだが、多少安堵した。
PC-9821Xv13/W16のWindows2000にDirectX 8.0aをインストール。
先日記した通り、AT2号機のWindows 2000にDirectX 8をインストールした環境ではS-YXG50が動かなかった事から、インストール後、S-YXG50が使えなくなる事を覚悟していたのだが、どういう訳か、こちらではインストール後、再起動してからも問題なくS-YXG50(NT4.0/2000版)が動作している(爆)。
何度か念の為にチェックしたが、やはり動作している(汗)。
・・・何故だ??
その後、あれこれ考えている内に、昔、「既に或るソフトがインストールされている状態でWindowsに何らかのアップデートモジュールを導入した場合、そのソフトはその後も問題なく動作するが、既にそのアップデートモジュールを入れた状態のWindowsに件のソフトをインストールした場合にはそのソフトは皆目動作しない」というトラブルが出た、というレポートがあったのを思い出した。
要するに、DirectXはインストール時に既インストール済みモジュールを置き換えるのだが、既にフックされているデバイスを検出→それについての新手順での再フックという作業は行うが、そのインストール後にインストールされる、古いDirectXに対応したデバイスによるフック要求に対しては旧来の手順でのフック手段を提供したり、あるいはフック要求を検出して手順の自動すり替えを行ったりはしない、という事の様だ。
・・・状況証拠から察するに、どうもこれっぽい(苦笑)。
整理すると、
「Windows 2000環境でDirectX8.0以降とS-YXG50(NT4.0/2000版)を共存させるには、Windows 2000 → S-YXG50 → DirectX8.0以降の順でインストールを実施する必要がある」
という事になる。
あるいは、将来的にS-YXG50がアップデートされれば解決する問題かも知れないが、少なくとも今の所はこれ以外に共存の手だては存在しない様だ。
取りあえず問題が究明できたので、晴れて98に3DMark2001をインストール。
イレギュラーな手だが、Windows2000用に限ってはWGP-FX16NでもGA-VDB16/PCIのドライバが動いてしまう(I-O DATAさん、有難う)ので、このカードでも3Dアクセラレーションが有効に出来るから、この重いベンチも一応動く筈なのだ。
果たして、インストール自体は問題なく完了した。
が、実行してみたら、いきなり起動画面もロクに拝まないままにエラーが出て終了してしまった(号泣)。
で、理由が判らなくて色々考えている内に、実は重大な見落としがあった事に気付く。
メモリが足りんやん(爆死)。
・・・どうにかして、64MB ECC-EDO SIMMを偶数枚確保しなきゃならないかなぁ(涙)。
西暦2001年3月26日 “遺産継承者の試練”
今日は、それ程痛まずに目が覚めた。
ハーバーサーカスの祖父地図でPC-9801-87を購入。
今の所は98用5インチドライブは持っていないが、いずれ買うかも知れないという事で(苦笑)。
このボードをXv/Xt/Rv/Rs系のミニタワー筐体なマシンで使うにはPC-9821-K12という専用延長ケーブルが必要なのだが、基板と、添付されている古い世代のデスクトップ機用ケーブルを見ていたら何となくどんなケーブルが必要なのか判ってしまった。
・・・これなら、多分今使っている改造FDDケーブルに34pinコネクタを圧着すれば何とかなるだろう。
そう判断してレジに持っていったが、果たしてどうなる事やら。
何しろ、改造してケーブルをこさえても、外付け5インチFDDを買わない事には完全な動作確認は出来ないのだから(笑)。
新城カズマの最新作、“浪漫探偵・朱月宵三郎 屍天使学院は水没せり”を購入。
・・・ああ、これだよこれ、俺が読みたかったのは。
一連の蓬莱の仕事で、新城一馬という人がディテクティブものを書く才のある人だというのは、そうして稀代の読書家であるという事は既にして示されていた(旧図書館を描く彼の筆致の見事なこと!)訳だけど、こうしてある意味直球ストレート(まぁ、あり方としては変化球だが)に趣味爆発な作品を読むと、ああ、やはりなぁ、と思わずにはいられない。
正直、苦労伝承、もとい狗狼伝承の方はかなり辛い感じだったのだけど、こちらの方は何かこう、筆者自身がノリに乗って書いている事が伝わってきて、読み進めるのが物凄く楽しい。
こういう作品に出会えるからこそ、読書はやめられない(笑)。
個人的には、今年前半最大の収穫かも知れない。
挿絵とあとがき(いや、これはこれで面白いのだけどね)を特に気にしない、面白い小説が好きな人には強くお勧めしておこう。
西暦2001年3月27日 “PC-9821As2/U8W”
諸事情で岡山へ。
久々の岡山では、何故か放置されていた筈の気動車区のDE50 1が綺麗に再塗装され、しかも割れていたキャブ側面の窓ガラスも新しい物に入れ替えられていた。
非常に結構な事だが、一体何があったのだろうか?
岡山到着後、まずは宇野線で大元へ。
列車は湘南色に大きな白熱灯の前照灯を備えた、JR四国の111系4連による観音寺行きだった。
偶然だが、この線で一番乗りたかった車に当たった訳で、非常に幸先が良い。
当然ながら電動車であるモハ110-4に乗車した。
この編成はJR分割後すっかり激減してしまったMT-46主電動機を搭載する、最初の近郊電車シリーズの最後の生き残り2本の片割れだ。
MT-46(定格出力100kw)は113/115系などでおなじみのMT-54(定格出力120kw)の元になった電動機で、151系特急電車や153系急行電車といった、国鉄の高性能電車第1シリーズに標準搭載された電動機として知られている。
私自身の記憶でいえば、新快速の2代目車輛として京阪神間をフルノッチで疾駆した、153系の活躍が未だ記憶に新しいのだが、時の経過とは残酷なもので、今やこの電動機はJR西日本やJR東海からは駆逐され尽くし、あれほど大量の101系を擁した首都圏でも今や南武線にワンマン改造された101系2連が残るばかり、という有様になってしまっていた。
つまり、瀬戸大橋線の様なMT-46の全力発揮を要する程の高速運転を行う運用に就いているものは、最早他にないから、本音を言えば大元でなぞ降りたりせずに、そのまま終点の観音寺までMT-54系とは一味違う、あの軽やかな駆動音に聞き惚れたいところであった。
だが、流石にそういう訳にも行かず、後ろ髪を引かれる思いで下車し、大元周辺のパソコンショップ群を徘徊する。
・・・流石に1年も経つと、随分様子が変わっている。
かつてお世話になったエレクパ(そういう名前のPCショップがある)は四日前に他の場所へ移転して閉店し、OAシステムプラザも店内の配置が記憶と色々変わり、何よりその向かいには、これ又系列店に散々お世話になったビデオマート銀河がいつの間にか開店(それも、朝5時まで開店だそうだ。時代は変わった)していた。
ちょっとした驚きと共に大学病院前を経由して清輝橋へ。
そうして本当に久々に岡山電軌に乗車。
車輛は7201。
車籍上、大分交通別大線505→岡軌3501を前身とし、実際にも同車の近畿車輛KD-202台車を継承する、車体更新車の第三陣だった車だ。
乗って改めて思ったが、やはり路面電車は便利だ。
似た様な条件である筈のバスに乗っても、これ程気楽には行かないのは何故だろうか?
ふと、そんな事を思う。
途中で下車し、表町を少し歩いてから、デオデオで日立マクセル製5.25inch 2HDディスケット10枚を購入。
これも、恐らくそれ程経たない内に、市場から姿を消してしまう筈の品だ。
その後、大学行きのバスに乗車。
車内に犬が寝そべっているから何事かと思ったが、盲導犬であった。
実際に見るのは初めてであったが、あそこまで躾るとなると、並大抵の仕事でない事はすぐに判った。
いやはや、大変な犬だ。
大学西門前で下車し、取りあえず学生会館の方へ歩いていたら、S-FANの後輩のO嬢に会った。
久々に会ったので、学生会館でしばらく懇談(笑)。
持参していたPCI-AS2940UWを見せたら、ウケてくれた(笑)。
まぁ、これは変なカードではあるわな(苦笑)。
その後、SCSIのメリットやMacについて質問されたのであれこれ説明していたら、これ又S-FANの後輩のA君が現れた。
会うのはかなり久々だったが、元気そうで何より。
彼にもPCI-AS2940UWを見せたが、やはりO嬢と似た様な反応が返ってきた(苦笑)。
で、彼を加えて話していて、ふと本来の目的を思い出す(爆)。
危ない危ない。
しばらく彼らに荷物の面倒を見て貰っておいて経済学部の学部棟に赴き、本来の目的である所の手続きを行う。
これで、本日の最大の目的は果たしたので、その後も久々の会話を楽しむ(笑)。
・・・ああ、和むなぁ(笑)。
持参したもう一つのブツであるP/I-XP55T2P4をM君に渡す為に、彼を召還(爆)。
彼も元気そうで何より。
その後、色々話している内に、何時の間にやらA君に昔売却したPC-9821As2/U8Wをカード類搭載のまま引き取る話がまとまる(苦笑)。
まぁ、あのマシンは色々いじってあるので下手な人間には渡して欲しくなかったから、これはこれで非常に有り難い話なのだが・・・。
そんな訳で、彼のすっかり腐海に埋もれてしまった下宿(笑)を訪れ、目的のブツを回収。
流石に重い(A-mateは見かけの割に本当に重い)ので、彼の自転車で駅まで運んで貰ってそこで別れ、0系による“こだま”で姫路に戻った。
何やら良く判らないが、こういう日もある(苦笑)。
さて、As2はどういう風に利用しようか。
・・・ああ、でもその前にAMD-X5用の下駄を何処かで調達する必要があるなぁ(爆死)。
西暦2001年3月28日 “Lost Technology”
PC-9821As2を久々に分解してみる。
大方1年ぶりのA-mate分解だが、例によって例の如く手が勝手に次のネジを回している(笑)。
完全にパーツを取り外し、G8PHDと印刷されたマザーボードを拝む。
以前に解体した時には、全く意識していなかったのだが、チップセット(に当たるチップ群)が全て形式番号の末尾に-002と付されたカスタムチップであった事に初めて気付いた。
いやぁ、この頃までの98って本当に金がかかっていたのね・・・(溜息)。
FD113x系の3モード薄型FDDもそうだけど、このマシンの各パーツはどれも、物凄くしっかり造り込まれている。
このマシンをメインマシンとして使う様になった頃、初めてX-mate(確か薙沢君のXa7だったか)の中身を見て、あまりの粗雑さに愕然とした事を久方ぶりに思い出した。
そのくらい緻密で、かっちりとした造りのマシンである。
性能で言えば同じA-mateでも後発のAnやAs3/Ap3の方が有利なのは自明なのだけど、造りだけを問題にする限りは、それらよりはこのAs2あるいはAp2の方が、そうしてAs2/Ap2よりはAe/As/Apの初代A-mateの方が(僅かずつだけど)優れている。
それは、コスト優先の時代となっては顧みられることもなくなってしまった、技術者の良心というべきものの現れで、これあればこそ、私はこうしてこのマシンをいじっているのだとも言える。
寧ろ、今のような時代にこそこんなマシンが欲しいのだが・・・。
西暦2001年3月29日 “PC-9801-114”
西川魯介の“SFフェチ・スナッチャー2”を購入。
やはりいつも通りのノリだが、いやあ愉快愉快(笑)。
フォーラス6階のJ&P姫路店が閉店セールをしているというので行ってみる。
何やら二昔前の共産主義諸国の百貨店みたいな荒涼とした店内の状況に唖然とする。
マジで、売り尽くしセールという事か(笑)。
ソフトのコーナーで価格をチェック(店頭在庫20%oOFFはやはり安い)してから、拡張カードとかのコーナーを見ていたら、懐かしい黄土色の段ボールに緑色のストライプを印刷した、PC-9800シリーズ関連ハードウェア製品の大きな箱が一つ置かれていた。
今頃一体何だろう? とか思いながら近寄ってみると、驚いた事にそれはPC-9801-114 “PC-PTOSキーボード”であった。
念の為に解説すると、これは、かつてNECがPC-98とは別ラインで販売していたオフコンのN5200シリーズを98に統合する際(時期的にはA-mateの頃)に、既存のPC-9800シリーズ用キーボードではPC-PTOSと呼ばれるN5200業務用アプリケーション動作専用OSの要求を満たしきれなかった(具体的にはファンクションキーに相当するキーが足りず、他にも幾つか特殊キーが足りなかった)為に、(PC-9800標準配列との互換性を維持しつつ)新規設計されたキーボードだ。
これは旧資産の継承のみに主眼を置いて開発された特殊な製品で、生産数は決して多くなかった(NECとしても出したくなかった)し、そもそも価格がかなり高価(定価で\20,000)だったから、店頭でお目にかかる機会もなかなか無かった。
それだけに、今更何でこんな物がここに? と思ったのだが、更に近づいて何気なく値札を見て、殆ど腰を抜かしそうになった。
「定価\20,000のところを特価\1,000」
反射的に手が伸びていたのは言うまでもない(笑)。
で、レジで支払いをしながら店員氏に尋ねてみたら、「(閉店に伴う)在庫整理をしていたら倉庫の奥から出てきた」由で、法人向けの商売の関係で在庫していたのが今の今まで残ってしまっていた、という事らしかった。
帰宅後、さっそく開梱してチェック。
ノンクリックなのだが恐ろしくキータッチが良い。
まさか、と思ってキートップを外してみたら、果たしてALPS系メカニカルスイッチが現れた(喜)。
以前、W.T.先輩が同じNECのPC-9801-116(だったか)というPC/AT系の106配列キーボード(こちらも定価\20,000)を買われた時にメカニカルスイッチであったとの報告を受けていたのだけど、何しろあちらはDOSではデバイスドライバが必要(爆死)という謎な仕様だったので、迂闊に手が出せないでいた。
それを知っていたが故の“まさか”だったのだが、大正解だった訳だ(笑)。
考えてみると、長期に渡る酷使が前提の業務用キーボードでメンブレンゴムスイッチキーボードを使うというのは、あの頃のNECの体質や姿勢を考えればあり得ない事だった。
まぁ、流石にキートップの文字は金のかかる多色成型によるものではなく、印刷によるものになっているから、多少低コスト化への配慮は見られるのだが(苦笑)。
いやぁ、それにしても恐ろしくキータッチが良い。
何というか、これまで使っていたPC-9801RA2付属品と比べても尚良い感じだ。
これが\1,000(税込みでもP1,050)で手に入ったのだからもう笑いが止まらない(爆笑)。
これだけタッチが良ければ多少のキー配列の違いなど、最早どうでも良い、って感じで(笑)。
・・・ああ、これと同じスイッチのPC/AT互換機用101キーボードがあったらなぁ。
いやはや良い買い物であった。
西暦2001年3月30日 “過去との遭遇”
As2にWindows 95をセットアップする。
先だって組みかけた仮称AT4号機も大概遅いと思ったが、それでもこのマシンに比べれば実はかなりマシだった事を悟る(苦笑)。
まぁ、メモリ:32.6MB(.6MBってあたりが如何にもAs2だ(笑))、CPU:Intel 486DX2 66MHz、おまけにHDのインターフェイスがCバス接続のFastSCSI、なんてマシンで速かろう筈もないのだが。
寧ろ、そこそこの性能を確保する上で大きく貢献している、ローカルバス接続の86c964(Vision 964)のグラフィック性能の方を誉めるべきか。
取りあえず、HD回りは今更どうにもならないので、ここからパワーアップするとしたらCPUとメモリの強化しかないのだが、CPUの方はAMD-X5-133ADZは手元にあるものの、肝心の電圧降下/逓倍率設定下駄が薙沢君の気分次第(一応、手持ちのImagine 128 Series IIeとのバーター取引という事で話は付いているが、「発送がたるい(面倒くさい)」のだそうだ(苦笑))だし、メモリの方は予算次第で今の所現状のまま行くしかない、という状態だからなぁ・・・(溜息)。
只、この2条件さえクリアできれば、インターネットブラウジング位には使えるマシンにはなる筈だ。
無論、Xv13以上にDOSゲー優先のマシンという当初のコンセプトを考えれば、そちらの目的で使う分には今のスペックで充分なのは確かなのだが、登山家が「そこに山があるから」山に登るのと同じ理由で、空きの拡張スロットを見れば何か入れるに値するカード/ボードはないものかと思案し、スペックの低いCPUやメモリが入れてあればこれを入れ替えるのはどのパーツだったっけと脳裏の古いカタログを検索し、そうして時には酸欠後のテム・レイ博士の様に、恐ろしく旧式のアップグレードパーツを手に握りしめて「これを入れればこのマシンはきっと速くなるぞぉ!」などと絶叫したりする、我々の様な駄目人間(合掌)の習性からすると、性能向上の可能性(でも実は大して速くならない)があるのにそれを適当なところで止めてお茶を濁すというのは犯罪以外何物でもない訳で、やはりここは一つ限界を極めてみたいという気になるのだ(爆死)。
弥生会計2001とMicrosoft Office 2000 Professional(SR1)を購入。
前者は家の青色申告用、後者は私用のアカデミック版だ。
言うまでもなく、昨日値段を調べたJ&P姫路店の閉店セールで買ったのだが、そうでもなければ予算が出なかった(苦笑)。
まぁ、正直なところ、Officeをこれから先、一体どの位使うかは怪しい所があるのだが・・・。
西暦2001年3月31日 “RS-232C”
As2に挿してある各ボードのWindows 95上での設定を行う。
というか、MDC-926Rsは専用ユーティリティでこれを正しく行わないと、使い物にならない(苦笑)。
で、99年秋に緑電子がサポート/ドライバ・ユーティリティ群の公開を切る直前にDLしておいたアーカイブファイルをバックアップMOやCD-Rの山の中から探し出してLAN経由でAs2にコピーし、展開する。
・・・これ、どうやって使うのだったっけ?(爆死)
久しく触っていなかったボードなので、この辺の設定方法とかきれいに忘れてしまっていた(苦笑)。
笑っていても始まらないので、取りあえずsetupという名のファイルを実行してみる。
すると懐かしくも怪しげな(笑)、緑電子オリジナルのMD PnP対応のセットアップツールが起動した。
・・・そういえばこんなツールでIntの割り当てやシリアルポートの有効/無効を設定したのだった。
何というか、非PnPマシンを触る事自体、最近すっかり絶えて無かった事なので、物凄く新鮮だ(苦笑)。
それにしても、Power Window 964LBの画は綺麗だ。
もう今から7年も前の製品で、RAMDACも高速とは言い難い(ドットクロック135MHz)筈なのに、SSHだなんだと画質改善策を講じた筈のSPECTRA 5400 Premium Editionと比較しても決して見劣りしない(それどころか、これ以上に艶やかな印象の画が出てくる)というのは、一体どういう事だろうか。
まぁ、VRAM 2MBなので、高解像度多色環境での比較が出来ないのが非常に残念だが、それにしてもこのボードの画は印象的で、見ていて飽きない。
往時より、このボードは「A-mate用では至高の逸品」との評を得てきた訳だけど、その評が過剰でも不当でもなかった事を、今回改めて確認する事となった。
・・・なるほどこれでは何時まで経っても中古価格が下がらない訳だ(苦笑)。
こうなってみると、5年前のあの日、中古で見かけた4MB版を買っておかなかった事が心底悔やまれてならない。
無論、あの時何故買えなかったのかは良く判ってはいるのだが・・・。
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